2025年05月一覧

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「わたしたちの祈り」マタイ6:1-15 中村吉基

どの教会の礼拝においても「主イエスが教えてくださった祈り」として祈られている「主の祈り」、原始教会ではクリスチャンになるものだけが知ることを許された「秘密の祈り」だった。主の祈りでは「我ら(私たち)」という語である。プロテスタントでは祈祷書を用いず自由祈祷が通例であるがともすれば自己中心的な祈りになってしまう。しかし主の祈りは「私個人の祈り」ではなく「私たちの祈り」すなわち共同の祈りである。中でも「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」では他者を赦す前に自分が赦されることの必要性が語られている。「赦す」ことは簡単ではない。しかし主イエスは人間の恨みや苦しみをすべて引き受け十字架の死を遂げられた。主の祈りを通して「私たち」が「赦され、赦す」ものへ変えられるようになりたい。

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「イエスの指し示す道」ヨハネ14:1-12 中村吉基

今日は「告別説教」と言われる箇所である。イエスの人柄や今まで聞いたこともないような「自分を生かしてくれる」教えを信じ従ってきたのにこの別れをきいて混乱した弟子たちに、イエスは「心を騒がせるな」と言い、自分を神のもとへ行く「道」であると続けた。その道とは「心から人を赦しなさい」というものである。また助けが必要な人があれば「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言う。福音の言葉を自身の生活にとりいれなければ聖書は「むなしい道徳の教科書」になってしまうが、神は主イエスを信じる者にこの道を進ませる力を与えてくださる。原始教会でも様々な軋轢があったが信仰と聖霊に満ちた人々が解決する中で、教会は神の共同体であり、人は神に似せて作られたものであり、皆が大切にされる居場所であることを示した。私たちの教会もそれに倣い、今年度の年間聖句「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」を覚えて証ししていこう。

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「後悔のその先に」ヨハネ11:17-27 中村吉基

マルタとマリアの物語は、イエスとの深い信頼関係を描く聖書の中でも特に印象的な場面の一つである。兄弟ラザロの死に直面した姉妹は、「主よ、もしここにいてくださいましたら…」と嘆き、深い悲しみと後悔に包まれていた。しかし、イエスはその痛みに共感し、自らも涙を流された後、ラザロを復活させる奇跡を起こされた。これは、すぐに奇跡が起こると信じてはいなかったにせよ、イエスを救い主として信じ続けた姉妹の信仰によるものである。この出来事は、現代を生きる私たちにも深い示唆を与える。身近な人の死や人生の過ちに対する後悔は誰しもが経験することであるが、その感情に囚われ続ける限り、前に進むことはできない。イエスの「出て来なさい」という呼びかけは、私たちを絶望の中から救い出す希望の言葉である。マルタの「わたしは信じております」という告白は、信仰によって未来へと歩み出す決意の表れであり、神は私たちにも同じように信仰と希望をもって生きることを望んでおられる。