マタイによる福音書21:12-16
去る1月20日、アメリカでは大統領就任式が行われ、ドナルド・トランプ氏が第47代大統領に就任しました。その翌日にワシントンの聖公会のワシントン大聖堂において「国民のための祈りの礼拝」が開かれました。アメリカは政教分離の国ではありますが、国家の行事は聖公会に委託されています。事実上の国教であると言われた方もおりましたが。この大聖堂はナショナル(国家の)大聖堂とも呼ばれるのです。つい先日もこの教会でカーター元大統領の葬儀が営まれたばかりです。この「国民のための祈りの礼拝」は聖公会信徒だったフランクリン・ルーズベルト大統領が就任した1933年以来、続けて行われてきた伝統があるのだそうですが、キリスト教各教派だけでなく、イスラム、ユダヤ、モルモン、ヒンドゥー、シークなどの多宗教、多教派のトランプ新大統領やバンス副大統領を前に「慈愛の心」を求めたワシントン教区のマリアン・エドガー・バディ主教の説教が、今、国内外のメディアで報じられています注目を浴びています。
バディ主教は説教の終盤、1月20日の大統領就任式では国を理想を語るこれまでの大統領就任演説とは違って、かなり政策について踏み込んで演説しました。その中で「ジェンダーは男女の2つしかないというのが、アメリカ政府の公式方針になる」と演説したトランプ氏に向き合い、努めて穏やかな口調で諭すように語られました。
「大統領閣下、最後に懇願させてください。何百万人もの人々があなたを信頼しています。そして、昨日、あなたが国民に語ったように、あなたは愛に満ちた神の摂理を感じておられるはずです。私たちの神の名において、今、恐怖を感じている自国の国民に慈愛を施してくださるよう、お願いいたします
民主党、共和党、無所属の家庭には、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの子どもたちがおり、中には命の危険すら感じている子どもたちもいます。私たちの農作物を収穫し、オフィスビルを清掃し、養鶏場や食肉加工工場で働き、レストランで食事をした後の食器を洗い、病院で夜勤をこなす人々の中には、市民権を持たないか、あるいは適切な書類を所持していない人がいるかもしれません。しかし、移民の大多数は犯罪者ではありません。彼らは税金を支払い、良き隣人でもあります。彼らは私たちの教会やモスク、シナゴーグ、グルドワーラ(説教者注:シーク教寺院)、寺院の忠実な信徒でもあります。
大統領閣下、どうか私たちのコミュニティで、親が連れ去られてしまうのではないかと恐れている子どもたちに対して慈愛の心を持ってください。そして、自国での戦地や迫害から逃れてきた人々に対して、この国で思いやりと歓迎の意を見出せるように支えてください。私たちの神は、私たちがよそ者に慈しみを向けるべきであると教えています。なぜなら、かつて私たちは皆、この土地ではよそ者だったからです。神が私たちに、すべての人間の尊厳を尊重し、愛をもって互いに真実を語り、互いに、そして神とともに謙虚に歩む強さと勇気をお与えくださいますように。すべての人々のため、この国と世界のすべての人々のために。アーメン」。
(Kirishin =キリスト新聞 2025年2月1日号より引用)
このバディ主教の説教に対してトランプ大統領は、不快感を示し、「つまらない説教」だとか「いい礼拝だとは思わなかった」「もっとうまくやれたはずだ」とコメントしました。
キリスト教における「礼拝」とは、神の前に共にひざまずくという意味があります。これはおそらく他の宗教であっても共通する事柄でしょう。にもかかわらずこの大統領は「彼女の不適切な発言は別として、礼拝自体も非常に退屈で、つまらないものだった。彼女はあの仕事に向いてない! 彼女と教会は国民に謝罪するべきだ!」とまくし立てているのです。
トランプ氏はキリスト者であると自認しています。しかし彼が所属していると主張するニューヨークの教会の牧師は以前、「彼は教会員ではない」とインタビューに答えていました。それはさておき、キリスト者であるならば共に神の前にひざまずく謙虚さを持つべきではないでしょうか。「説教が間違っている、取り消せ」、そして「バディ主教は教会の指導者に向いていない」とは、敬意のひとかけらもないのです。まさに上から目線の老害の極みです。今後のアメリカの4年間が危ぶまれるところです。またこれに迎合してバディ主教に謝罪を求める日本のキリスト者までいてインターネットなどで猛攻撃していることも同じ神の前にひざまずく者として嘆かわしいことです。
主イエスがエルサレムの神殿に来られた時に、私たちの知っている主イエスとはかけ離れたようなたいへん乱暴な行為に出るのです。
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された(12)」。
なぜこんなことが起こったのでしょうか。その前に私たちは主イエスがおられた神殿とはいったいどんな場所だったのかということを知る必要があります。
旧約の時代において神殿は「神の家」「神の住まい」「宮殿」と理解されていました(詩編42:5など)。先ほど共に聴いた創世記28章ではベテル(神の家)という言葉が記されてありました。神殿は礼拝をする場所というよりは生ける神がそこにおられる場所、神にお会いできる場所でした。しかしイエスの時代にはこの神殿において形骸化した祭儀の数々が行われていたことも事実でした。
この日、このエルサレムにある神殿では「過越しの祭り」が祝われている期間でした。過越しの祭りとはヘブライ民族の先祖がエジプトで奴隷になっていた時に神がモーセを通して救いだし、荒れ野での40年の旅を経て、民族を約束の地に導いてくださったことに感謝し、その出来事を思い起こし、子子孫孫に伝えていくための祭りです。しかし、神への感謝は形式主義に陥り、神の住まいである神殿はというと、たとえばここに出てくる両替人たちは神殿内でだけ使用できるお金に両替する時に法外な手数料を取り、神殿にささげる鳩を売る商人は、神殿の外で売られているものよりも何倍も高い額で売り付け、しかもそのような店は神に仕える祭司たちの家族が営んでいたことが多かったのです。こうした商売人たちが、純粋に神を拝もうとしている人たちからが暴利をむさぼっていた事実に主イエスは怒りを露わにされました。
そしてこう仰せになりました。
「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(13節)。
これはイザヤ書56章7節とエレミヤ書7章11節からの引用です。神殿の中心におられるのは神です。その神の御子主イエスがご自分の家に帰って来たという印象を持っていたことでしょう。しかし、そこで目の当たりにされたのは神の御姿ではなく、人間の醜い心や姿でした。神殿に仕える祭司たちはこの事件を通じて、イエスを殺すことを企て始めるのです。
さて、最初に神殿を建てたのはダビデ王の息子ソロモン王でした。ソロモンは誰もが祈りに来ることができる、そして神のために捧げ物をし、礼拝することのできる「家」を建てたのでした。しかし時を経て主イエスの時代になるとイエスをして「ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(13節)と言わしめるような有様になっていました。この神殿での出来事は四つの福音書すべてが伝えている物語です。中でもヨハネ福音書が詳細に描いていますが、そのヨハネによれば、このようなやり取りが加えられています。
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである(ヨハネ2:17~21)。
神の御子イエスは神殿が「自分の体」なのだと仰せになりました。それほどまでに主イエスが思われていた「神殿」です。私たちはこの日曜日にいまここに与えられている礼拝の場、すなわち神殿に帰ってきています。私たちの神殿である教会は、子どもたちからお年寄りまで、また10代の人たち、青年や熟年、家族のない人やある人のだれもが集うすべての人のための祈りの家として開かれています。冒頭でご紹介したバディ主教の説教はこのような祈りで結ばれています。
「神が私たちに、すべての人間の尊厳を尊重し、愛をもって互いに真実を語り、互いに、そして神とともに謙虚に歩む強さと勇気をお与えくださいますように。すべての人々のため、この国と世界のすべての人々のために。」
私たちにとって、今ここが祈りの家であり神殿です。私たちの教会が「祈りの家」となるためには、まず神が中心におられるか、「神の国と神の義」が第一とされているのか、また私たちは礼拝のたびごとに「み名が崇めさせたまえ。み国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と主イエスが教えてくださった祈りをささげています。でもその祈りが形式的に終わってしまっていては主イエスを悲しませるばかりです。私たちの心からほとばしり出るような本当の祈りになっているでしょうか。私たちの教会に連なる一人ひとりが「教会を訪れるすべての人のための祈りの家」を形づくるように主イエスは今朝私たちに呼びかけておられるのです。
当時の神殿、そこに集まる人びとは、神様の真実の愛を忘れていたと言えます。本田哲郎神父の訳された聖書には、この箇所に「貧しい人を苦しめる供えもののしきたりを、怒りをもって打ちこわす」との見出しが付けられているのを思い起こさずにはいられません。これはこの時代の私たちの教会にも同じことが起こります。たとえば礼拝のことよりも行事や交わりのことばかりに心を奪われていたり、キリスト者であることを何か特権のように考えて、利益を享受しようとしたり、これは本来、反対のはずです。
今、私たちは私たちの周囲にある形骸化したもの、形式主義に陥ったものに別れを告げなければならないのです。神への礼拝が教会の中心線、生命線であり、私たちが教会から何かをしてもらうよりも、この私が他者に、小さく弱くされている人びとに何ができるかをまず考えなくてはなりません。主イエスは「受けるよりは与える方が幸いである」と言われました。このみ言葉に生きる私たちでありますように。