2024年06月一覧

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「キリストはわたしたちの平和」エフェソ2:11-22 中村吉基

エフェソの教会ではユダヤ人のクリスチャンに加え「異邦人」が増え、問題がおこっていた。ユダヤ人は神さまに救われる聖なる民族で律法を与えられた人々であり、異邦人は汚れた人々という思い込みがあり、両者はうまくいかない。そこにパウロは「以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者」となり「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され」た。「キリストはわたしたちの平和であります」と続ける。平和のキリストは人と人との間に線引きされた垣根を壊される。イエス・キリストというお方が来られたことによって旧約の律法は廃棄され意味のないものになったが、エフェソの教会の人々にはなお「敵意」があった。敵意がある限り、隔ての壁は無くならないし壊れない。その教会にパウロは、あなたがたは外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であると説く。今の日本でも外国人を排除するようなことが起きている。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」という今日の聖書の言葉を心に刻み、祈りを捧げ行動していこう。

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特別説教:「光は暗闇の中で輝いている」

インターナショナルサンデー礼拝のお知らせ 代々木上原教会では、毎年この時期にインターナショナルサンデー礼拝として、外国人の人権のために祈る礼拝をおこなっています。今年は、日本YMCA同盟に所属し、数年前からウクライナ支援に従事してい...

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「その水をください」ヨハネ4:1-15 中村吉基

ユダヤと敵対関係にあったサマリアの地を通った時イエスはヤコブの泉とよばれる井戸で休んでいた。その時水をくみにきた女性に「水を飲ませてください」と頼む。パレスチナでは水は貴重で井戸は共同管理されており旅人が容易に使うことはできなかった。女性は「なぜユダヤ人がサマリアに頼むのか」と言うが、イエスは、もし私が誰なのか判っていたならば、あなたのほうが私に水を飲ませてくれと言うだろうに……。わたしは生きた水を持っているのだからと返す。生きた水と人間の救いのことである。しかし彼女は理解せずとんちんかんな受け答えをする。私たちも似たようなことをしていないだろうか。神が私たちに実現させようとしておられることを「まさか、そんなことができるはずがない」と否定してしまうのである。創世記でアブラハムとサラも子供をさずかるというお告げを笑ってしまっている。私たちは過去を捨てず、思い込み決めつけてしまう。今日の箇所には「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とある。私たちにできないことがあっても、神にはそれができないことはない。消極的な自分の内側の声ではなく神のみ声に耳を傾けたい。今日の聖書の最後では、サマリアの女性から「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」という。私たちも神に「その水をください」と素直に大胆に申し出られるものになりたい。

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「いのちのバトン」詩編23:1-6 中村吉基

(この日は昇天者祈念礼拝でした)今日の箇所詩篇23編はユダヤ教の人々も、キリスト教の者たちも何千年にも渡って愛唱されてきた聖書の言葉である。羊は道に迷いやすいらしく羊飼いが必要である。「わたしには何も欠けることがない」とあるが、それは羊飼い(神)がいれば十分に満ち足りるという信仰告白である。神は「正しい道」への導かれるがどんな道か、「死の陰の谷を行くときも」と記してある。人生は順風満帆ではなく絶望するようなこともある。そういう「死の陰の谷」を乗り越えてくるのが人生である。しかし詩篇の作者は「わたしは災いを恐れない」と続ける。「あなたがわたしと共にいてくださる」からである。正しい道に導かれるためには、与えられたいのちを精一杯に生きそのバトンを渡していくことも大切だが、どこに目を向けて人生を歩んでいくのかを考えることはもっと大事なことである。