「来て、見なさい」ヨハネ1:35-42 2022/01/02 中村吉基

エレミヤ書 29:11-14;ヨハネによる福音書 1:35-42

皆さん、新年おめでとうございます。こうして礼拝から新しい年を始められることを感謝しております。今日私たちに届けられた聖書の言葉は、今年の「日々の聖句」(ローズンゲン)の1月の聖句「イエス・キリストは言う。来てごらんなさい」(39節)に掲げられているものです。この最初の礼拝で共に聴きたいと願います。

この箇所の最後に記されてあるのですが、シモンという男が、兄弟のアンデレに連れられて、主イエスのもとにやってきました。主イエスは彼を見て、「ケファ」と呼ぶことにされたのです。これは「岩」という意味です。日本語で言ったら「巌」さんなどといったところでしょうか。ギリシャ語では「ペトロ」と言います。こうして、シモンはペトロという名を主イエスからいただいて、新しい生き方を始めました。ペトロはキリスト教会の最初の礎として、こののち活躍することになります。

35節に戻りまして、洗礼者ヨハネの2人の弟子が主イエスに従って行きました。洗礼者ヨハネは主イエスのことを「神の小羊」だと言うのです。これは今日の箇所の前の箇所に数人の男たちが、洗礼者ヨハネがメシアであるのかを尋ねるために、エルサレムから彼のところへ遣わされました。彼は、「私はその声です。」と答えました(23節)。自分が来たのは、人々にメシアが来られることを告げるためだけだと言ったのです。その翌日、洗礼者ヨハネはイエスを見て、人々に言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(29節)。罪を取り除くために、メシアは罪のない無垢な小羊のように死ななければなりませんでした。メシアは、私たちが自分の罪のためにさばかれないように、ご自分の命を捨てて下さったという信仰から、洗礼者ヨハネは、イエスを「神の小羊」と呼んだのです。

その「神の小羊」である主イエスとはいったいどのようなお方であるのか。ヨハネの話を聞いた2人の弟子たちは興味津々、主イエスについて行ったのです。おそらくこの2人は道を求めていたのだと思うのです。そして現代に生きる私たちと同じようにいろいろな悩みも抱えていたかもしれません。そういう人でなければ見ず知らずの主イエスのあとをついていったりしないと思うのです。

皆さんこの光景を頭の中で浮かべてみてください。今皆さんが主イエスについて行っています。皆さんの前には主イエスが歩いて行きます。その後ろ姿を見つめながら何となく不安を隠せずに、それでもついて行きます。でも不安がよぎります。すると主イエスが振り向いて皆さんのことを見つめ、一言尋ねます。

「何を求めているのか」(38節)。

ここでは「~してください」というのでも「~してはいけない」でもなく、相手の求めていることに耳を傾け、それを受け取ろうとしてくださる言葉です。このときの場面と同じように主イエスはわたしたちにも今、そのように問いかけてくださっています。

あなたは今「何を求めているのか」。

これに対する二人の答えは「先生、どこに泊まっておられるのですか」というもので、どういうわけか主イエスの質問の答えにはなっておりません。「ラビ」はヘブライ語で教師に対する尊敬を表す呼び名です。

38-39節に3回「泊まる」という言葉が出てきますが、これは聖書の原典では「メノー meno」という言葉が使われています。この言葉はヨハネによる福音書の中で大切な使われ方をしています。

たとえば皆さんがよく知っておられる15章です。どうぞお聴きください。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・ わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」

ここで「~につながっている」と訳されているのは「メノー・エン」です(「エン」は「~のうちに」という意味の前置詞)。これは15:9以下で「~のうちにとどまる」と訳されます。こう記されています。

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

つまり、「メノー」はヨハネ福音書の中で神とイエス、イエスとわたしたちの深い結びつきを表す特別な言葉だと言えます。だとすれば「どこに泊まっておられますか」というのは単に主イエスの今晩の滞在先を訊いているわけではないのです。「主イエスとはいったいどういうお方なのか。天の神とどのような関係にあるか」ということを聞いているのです。

また、この問いの中には「主イエスの居られるところに私たちも連れていってください。そして、あなたとともに時を過ごしたい」という意味も込められているのではないでしょうか。そう考えれば、この言葉は「何を求めているのか」とイエスから問いかけられたわたしたち自身の答えでもあると感じられるでしょう。

イエスは「来なさい。そうすれば分かる」(本田哲郎訳では「来て、見なさい」)と言います。これもわたしたちに向けられた招きの言葉として受け取ることができるでしょう。

私たちはどのように主イエスと知り合ったのでしょうか。キリスト者の家庭に生まれた。小さなころから教会学校に通った。あるいは大人になってから教会に導かれた。何かのきっかけがあって、主イエスのほうへこの身体が向けられることになったのです。でも主イエスから「何を求めているのか」と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。私は今年で教会に導かれてかれこれ46年になります。クリスチャンホームに生まれたのでもない私が、どこでどのように主イエスのほうへと身体も心も向けられるようになったのか、思い起こしてみると本当に不思議な思いがしています。そして今、私が何を求めているのかを問い直してみる時におのずと自分の信仰を省みることにつながると思っています。

私たちは毎日、いろいろなものを求めています。そして、思い通りにならなければ、不満を感じたりもします。それでは果たしてそれらは本当に大切なもの、必要なものでしょうか?
もしかしたら、自分が何を求めているのかさえ、見失っている人も居られるかもしれません。

2人の弟子たちは「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。

主イエスは「来なさい。そうすれば分かる。」と言われました。

こうして弟子たちは、どこに主イエスが神とともに居られる方だと言うことを知り、主イエスがメシアであることを悟ります。

そして、その時に自分たちが何を求めているのかをも、はっきりと知ったのではないでしょうか。自分がどのように、どこに向けていのちを与えられたのか。自分が神から与えられた使命とは何かということを、です。

主イエスは今年どんな呼びかけを皆さんにされるでしょうか? 

そして家庭で、学校で、職場で、教会で、地域で、主イエスにつながっている者として私たちは何をすべきでしょうか。そして私たちに与えられている能力や時間や祈りの中で、神が私たちに期待されていることにどのように応えていくのかを祈りつつ、考えてみたいのです。

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