復活後第4主日 《うたえ》
復活後第4主日 《うたえ》 午前10:30 司会・説教:陶山義雄 奏楽:中村今日子 前 奏 (黙祷) 招 詞 イザヤ書35, 1-2 讃 美 歌 18(心を高くあげよ!) 交 読 詩編84編(教会備付 「交読文」 p.25) 聖書朗読 サムエル記下12,1-9 (旧p.496) マルコによる福音書4,1-9 (新p.66) 祈 祷 説 教 「イエスの優しさと励ましの物語」 陶山義雄牧師 祈 祷 讃 美 歌 183(イエスの御名に) 献 金 感謝祈祷:礼拝当番 讃 美 歌 326(地よ声たかく) 主の祈り 93-5A 頌 栄 25(父、子、聖霊に) 祝 祷 後 奏
- 教会学校 9:00「約束の聖堂」(使徒1, 3-5) Y.須藤
- オリーブ会 CS分級時、A会議室 担当:Y.須藤
本日の集会
- ガリラヤ会 礼拝後、A会議室
- 壮年会 礼拝後、B会議室
今週の集会
- 祈り会 5月22日(水) 10:30-11:30 A会議室。担当:松原新吾
次週礼拝等(2018年5月26日)予告
- 復活後第5主日 《祈れ》信徒による証し礼拝
聖書:ヨシュア記1,5-7;テサロニケの信徒への手紙一5,16-18
証し:「私の主」松原新吾 司会:廣石望 奏楽:小野千恵子
讃美歌:197, 521, 27
- 教会学校 9:00「イェス、天に上げられる」(使徒1,6-11) 廣石望牧師
今後の予定
- ペンテコステ(聖霊降臨祭)/子どもの日・花の日 合同礼拝 6月9日(日) 10時30分〜 教会学校と合同。通常の9時からの教会学校礼拝はありません。
お話: 村上典子
- 墓前礼拝:(多磨霊園・代々木上原教会墓地) 6月9日(日) 礼拝後移動し、14時頃から始めます。 自家用車を何台か出しますので、同乗ご希望の方はお申し出ください。
4月出席数報告
男 女 計 3日 祈り会 3 3 6 7日 主日礼拝 11 17 28 教会学校 子ども 0 6 6 おとな 3 4 7 10日 祈り会 1 1 2 14日 主日礼拝 16 22 38 教会学校 子ども 0 8 8 おとな 5 5 10 17日 祈り会 1 2 3 21日 主日礼拝 16 37 53 教会学校 子ども 3 12 15 おとな 8 9 17 24日 祈り会 3 1 4 28日 主日礼拝 15 21 36 教会学校 子ども 0 8 8 おとな 3 5 8
役員会報告
今年度の役員と担当が決まりました。(敬称略)
本年度教会総会で選出された役員:
土田潤子(再選)、玉嵜順子、黒髪紀子、村上典子
任期中の役員: 仙波容子、廣石由加、松原新吾、村上進
各会代表: 松山正男、内山伸子、槙和彦
監事: 鈴木伶子、平井桃子
担当係
書記:村上進 槙和彦
会計:仙波容子 原田由加
礼拝会員:黒髪紀子 土田潤子
庶務:松原新吾 村上進
礼拝音楽:玉嵜順子 槙和彦
伝道:原田由加 槙和彦 村上進 村上典子
慶弔:内山伸子 村上典子
図書:土田潤子
教会学校: 内山伸子
ガリラヤ会:玉嵜順子
壮年会:松山正男
青年会:槙和彦
このほかの議事については次週週報で報告します。
牧師室から
―譬話について―
福音書にはイエスの譬話が60近くあります。「医者よ、自分自身を治せ」(ルカ4,23)と云う格言風の短い「たとえ」から、「良いサマリア人」のように物語性の豊かな話もあります。子供から大人まで、誰でも分かる語りかけですが、聴く人の置かれた状況や生活状態によって多様に受け止められる余地を残しています。これは語り手であるイエスご自身が、敢えて多様な理解を許しておられるからであろうと思います。そこにイエスのお人柄と優しさが読み取れます。メッセージを物語で伝える時、誰にでも分かり受容される内容ですが、その奥深さは聴衆各人に委ねられているのです。時には、聴いている相手への痛烈な批判が語られているのに、物語であるので批判の矢が自分に向いている事すら分からないこともあり、ここにも語り手の優しさが伺えます。
傷つき、半死半生でいる旅人を、見て見ない振りをしながら、通りすぎた人たちの中には祭司やレビ人と云うった宗教家が登場しています。最後の期待はこうした宗教家を批判しているファリサイ人であるのに、イエスは物語には登場させず、サマリア人に無限の奉仕を旅人・ユダヤ人にさせているのです。これは痛烈な同族批判の物語になっているのに、誰もイエスを直接咎めることは出来ません。物語であるからです。
教会もまた譬話をどう理解して良いのか困惑している姿が福音書に露呈されています。その良い例が、今日の「種蒔の話」です。各福音書(ヨハネを除く)はイエスの譬話(マルコで云えば4,1-9)を載せた後、その解釈を付加しています(同4,13-20)。その解釈からは他の理解を許さないほどの内容です。前者を通常、譬話(Parableまたはsimile)、後者を隠喩(Allegory または Metaphor)と呼んで区分けをしています。前者を「直喩」、後者を「暗喩」とも呼ぶこともあります。
吉本隆明のエッセイ「喩としての聖書」(『言葉という思想』1981)では詩人の鋭敏な読み方をもって両者の違いを良く見分けています。そして言葉として聖書が優れているのは暗喩の方であり、奇跡物語も喩として理解できると述べています。 (陶山義雄)