2019.05.19

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「イエスの優しさと励ましの物語」

陶山義雄

サムエル記下12,1-9マルコによる福音書4,1-9

 イエス・キリストは生前、数多くの譬話を語っておられます。「良いサマリア人」や、「放蕩息子」のようにまとまった物語から、「葡萄酒と皮袋」のような短い話までも含めると、およそ、60近くのお話が福音書に載せられています。なぜ、これほど沢山の話をされたのでしょうか。

 私は、イエスが多くの人に囲まれ、話し手として幅広い聴衆に向かって理解と関心を引き寄せるため、必要を感じておられたことがその一因であると考えています。そのことは、デンマークの童話作家、ハンス・クリスチィアン・アンデルセンも触れている所ですが、彼はイエスが話し上手であった事を上げています。それは確かに当たっていると思います。しかし、そればかりではありません。今、申し上げたように、幅広い聴衆に向かい、誰にでも興味と関心を引き寄せて、理解を促すために、伝えたいことを物語にしたのです。もし、この場所に教会学校の子供達が大勢いたら、私は、伝えたいメッセージを一方では持ちながら、大人に話すような仕方ではなく、子供でも分かってもらえることを考えて、その話し方を変えなければなりません。教会学校の先生方は毎週、そのような工夫と努力をしておられる筈です。

 でも、それは、子供を対象にしているからそうするのですが、もし、大人も、子供も、お年よりも、若い人も、また、こういう言い方は、少し誤解を招く恐れもありますが、イエス時代を想定すれば、学者も、学びの機会が与えられなかった人も、漁師も、農民も、時には、悪意を持ってイエスを罠に落し入れようと企んでいる人もいる中で、誰にでも分かる話をしなければならなかったイエスであればこそ、譬話という手法が磨かれて行ったのではなかったでしょうか。そればかりではありません。聞く相手がどのように理解しても、相手を受容して、良しとされるような心の広い、優しさがあってこそ、譬で話ができたのではないか、と私は判断しています。

 本日の説教題を「イエスの優しさと励ましの物語」とさせて頂いたのですが、イエスが語られた、どの譬話にもこのタイトルが通用するのは、話をなさったイエスご自身が「優しさと励まし」を聴いている人々に与えようとしておられたからに他なりません。更に、譬話は物語になっていますから、忘れることがありません。誰にでも良く分かる上に、忘れられない話になっていて、それを聴いた人々の心にずっと残っていたのではないでしょうか。福音書を通して、私たちも、イエスの譬話に与る時、やはり、イエス時代の聴衆がそうであったように、私たちも忘れられない話になっているように思います。とかく、人間関係の在り方や、生き方、生き甲斐、人への奉仕など、およそ「神の国」とか、「愛の共同体」について話そうとすれば、そうした、説教は堅苦しくなったり、難し過ぎたりするものです。私は、皆さんを前にして大いに反省しなければならない説教者であることを懺悔いたします。

 でも、イエスの譬話は実に明解です。また、面白い。その面白さの1つに、相手をやり込め、批判しているのに、物語になっていますから、批判されている本人も気付かない。聴衆の一人として聞き流すことも出来る。でも、後になって、かなり深刻に自分が批判されていることが分かる。「良いサマリア人」の譬を聴いている相手が、律法学者であり、傷つき倒れている同族を見てみない振りをして逃げ去ったのは祭司やレビ人なのですが、彼らも、イエスにかかると実に優しく批判されていることが分かります。「良いサマリア人の譬話」に出てこないファリサイ派も、暗に批判されています。なぜならば、祭司やレビ人など、こうした宗教家たちが、見て見ない振りを普段していることに怒りを込めて立ち上がったのが、庶民で宗教刷新運動を始めたファリサイ派なのですから、祭司やレビ人が駄目であれば、当然、次の出番は自分達ファリサイ派であった筈なのに、イエスはこともあろうに、サマリア人を助け手として登場させています。ここには、ユダヤ人の人種差別主義も批判されているとなれば、この物語をただ面白く聞いてばかりはいられません。でも、怒れない。何しろ物語なのですから。こうした類の心優しい批判がイエスの譬話には随所に見受けられるのです。

 相手が譬話をどのように理解したとしても、それを良しとする、イエスの優しさではありますが、譬話を伝え聞き、記憶に止め、また、書き留めた福音書記者たちにとっては、やはり困った問題が起きています。数ある理解のなかで、どれがお話になった方の真意であるのか、と言う問題です。本日取り上げました「種蒔き」の譬話はその良い例に挙げることが出来ます。ヨハネ福音書を除いて、一番古いマルコ福音書に始まり、マタイもルカも、そして私たちの聖書には収録されていないのですが、戦後に発見されたトマス福音書にも「種蒔き」の譬は残されています。どれも、同じように読めるかも知れませんが、解釈をめぐって、教会の中で、また、福音書記者の間で見解の相違が良く現われているのが、この譬話なのです。

 先ず、この譬話の主人公は種を蒔く農夫です。彼は畑に出て種を蒔くのですが、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。他の種は石だらけの土の少ない所に落ちたのですが、そこは土が浅いので直ぐ芽を出したのは良かったのですが、根が無いために日が昇ると、萎れて枯れてしまいます。別の種は茨の中に落ちたので、茨の方が先に伸びて、蒔かれた種が芽を出しても、先に伸びた雑草のために窒息させられてしまいます。他の種は良い地に落ちたので、芽生え、育ち、実を結び、あるものは1粒の種から30倍、また、あるものは60倍、また、100倍にもなった、と言う物語です。マタイとルカ福音書はマルコと比べて多少の違いはありますが、(ルカ:石地ではなく、岩の上に落ちた種、またマタイでは100倍、60倍、30倍と下降線の収穫、ルカでは良い地に落ちた種は全て100倍の収穫)、殆ど変わりない物語と看做すことができます。トマス福音書は少し違っているので(下線部)、ここに挙げておきますと:

「イエスは言った、『見よ、種蒔きが出かけ、手一杯の種を持っていき、そして、それらを蒔いた。一部は道に落ち、鳥たちが来てそれらを集めた。ほかの種は岩地に落ち、そして、それらは、土に根がつかず、また、穂先を出さなかった。茨に落ちた種もあったが、茨がそれらの種をふさぎ、そして虫たちがそれらを食い尽くした。更に、肥沃な土地に落ちた種もあり、そしてその土地は豊作であった。すなわち、それは一定量につき60倍、更に一定量につき120倍の収穫をもたらしたのである。』」

 このように、語句などの違いは多少あっても、物語の構成は類似していると言える範囲の内容です。問題は、この譬話をどのように受け止めるのか、ということになります。先に触れました通り、譬話は聴く人の理解力と関心、また、自分が過ごしてきた体験や、抱えている問題などによって、様々な理解が可能になるものです。そこで、教会は模範的な回答を生み出しました。それが、マルコで言えば4章13節から20節にかけて語られています。これは、イエスが教えたもの、と言うよりは、種蒔きの物語が多様に理解されているので、教会が施した解釈と言うべき物語です。イエスの話は譬、英語ではparable ですが、これはギリシャ語の παραβόληパラボレー 並べて置かれたもの、併記 とでも訳せるものが、譬です。

 本日の旧約聖書で預言者ナタンがダビデの悪事を批判するときに、正に批判の言葉そのものではなく、それと並ぶ物語で相手に伝えるものが、譬(ヘブライ語のマーシャール)になります。これと同じことをイエスは用いておられます。ダビデは自分のことを言われたのに、全く気付かなかったので、ナタンはもう一度、事実そのものを言い返さなければならなかったのです。イエスは理解力と関心に応じて、どのように受け止められてもそれを受容しておられたので、ナタンのように言い換えることはしませんでした。ところが、教会はそれをしています。この説明は最早、譬ではありません。比喩、とか、隠喩的解釈(アレゴリー)とでも呼ぶべき内容です。

 農夫は宣教者、種は教会の説教(御言葉)、道端、石地、茨の土地は説教を受け入れなかった三種類の人々、また、良い土地とは説教を受け入れて、聴き従う人々です。同じ話を聞いていても、聞き流す人、少しは聞いても長続きしないで離れてしまう人々、途中から他の道に興味をもって移り気な人々、迫害にあうと耐えられないで、棄教してしまう人々が道端、石地、茨の土地のような人々を隠喩として表わしています。教会の解説はそれなりに良く分かります。私たちは、礼拝に来て説教をどのような姿勢で聞いているのか、私たちの心は果たして良い土地であるのか否かは、それなりに大切な問題です。しかし、そうであるならば、この「種蒔きの譬」は「蒔かれた土地」の譬というタイトルが相応しくなります。

 実は、マルコ記者は「蒔かれた土地」ではなく、「種蒔く農夫」の話として聴くべきことを提案しているのです。それが分かるのは、種に注目するところから始まります。マルコ福音書では、道端、石地、茨、いずれも収穫を挙げられなかった土地に落ちた種は全て単数形で記されています。それに対して良い地に落ちた種は複数形であるのです。イエスの言いたかったことは、農夫の働く姿勢にありました。畑に出て精魂こめて種を蒔き、失敗や実らないことがあったとしても、それは高々1粒であると言うこと。むしろ農夫は、大多数が良い地に落ち、大きな収穫を夢見て働いているのではありませんか。皆さんも、私も、毎日の生活で、失敗があったとしても、それは、高々ひと粒、1件、one case にすぎません。この農夫のように希望と信頼を自らの仕事に持ち合わせながら、また、必ず良い収穫へと神様は導いて下さる、と云う神への信頼が種蒔きの譬では中心的テーマになっているのです。この話を聞いている、あなたがたもそのように生きなさい。失敗があっても、希望と信頼を持って生きるのです。これが神の国に招かれている人の生き方ですよ。

 マルコはこうした理解をもって、教会の隠喩的理解では足りないことを指摘するために、4章の終わりの方で「自ずと成長する植物」の譬(4,25-29)と、「からし種」の譬(4,30-32)を載せて、イエスの教えの意味を補っているのです。蒔かれた種の話でもなく、また、蒔かれた土地の話でもなく、種蒔く農夫の働きと信仰が主題をなしている、とマルコ記者は訴えているのです。失敗例に挙げられた、道端、石地、茨に蒔かれた種が1粒になっているのは、マルコ福音書にしかありません。他の福音書では良い地に落ちた種と同様に全てが複数形の種に修正しています。それだけに、イエスの原初の譬とマルコ記者の見解は際立っているように見受けます。そして、この種蒔きの譬についてマルコ記者が結びに置いたのが「自ずと成長する植物」の譬と、「からし種」の譬であるからです:

 農夫が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する。どうしてそうなるかその人は知らない。神様のなさることで、その働きに身を任せて寝起きしています。すると、土は独りでに実を結ばせ、先ず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る。実が熟すと、今度は農夫の出番となって、早速鎌を入れる。このように、神の国に生きる人は、農夫と同じ信頼を神に置いているので、それが「からし種」のように1ミリ程度の小さい心でも、それを抱いて生き、働き続けると、大きく成長して、他の生き物さえ生かし支えていく存在になる、これが神の国と言うものである。イエスの聴衆は納得できたのではないでしょうか。種蒔きの譬を解説した教会の教えは、優等生ばかりを集めるには相応しい教えですが、社会から脱落した人々や、失敗を繰り返している多くの庶民には縁遠く聞こえます。イエス様はこういう弱者を神の国へと招いておられるのです。失敗や脱落を繰り返しても心配ないよ、神様は見守っておられて、必ず良い実りを備えて下さる。そうした、信頼の心、信仰心は素直にそう思うだけで、あなたの人生に良い実りを齎し、多くの人に安らぎを提供し、神の国が確実に成長して行くのです。イエスの優しさと励ましのメッセージこそ、この譬話を生み出す力になっていたように思います。

 「ピーナッツ」「スヌーピー」を50年にわたって書き続けた、チャールス・シュルツ(1923〜2000)はイエスの譬がもつユーモアと命の力を四コマの作品に著した人でした。登場する子供達は誰もが、失敗を重ねる1粒の種のような存在です。しかし、ビーグル犬のスヌーピーは救世主であり、イエス・キリストの働きに倣って失敗を乗り越えていく力を現し続けた作品、これがピーナッツです。「もっと気楽に」「きっと良くなる」。この言葉と働き、また信頼と確信が失敗を乗り越えて生きる力を私たちに提供しています。アメリカ・ルター派の牧師であるロバート・ショートと言う人は、『ピーナッツ』の愛読者でもあり、『スヌーピーたちの聖書の話』(講談社、1999)を出しましたところ、全米で1000万部を突破する売れ行きがあったそうです。日本でも講談社から翻訳が出て、初版は売り切れ、再版が待たれている所です。

 ショート牧師はこのように序文で述べています:「『ピーナッツ』のマンガは、しばしばキリスト教の現代版たとえ話といった性格をおびています。『ピーナッツ』が新約聖書(イエス)のたとえ話とどれほど良く似ているか、以下に例をあげてみよう。」このように述べて、この本はスヌーピーを紹介して行きます。私も、著者に刺激されて、この本とは別にその良く似ているところを発見して楽しんで参りました。間違いなく、私もシュルツの愛読者であり大ファンの一人であると自認しています。

 本日の「種蒔き」の譬と関連する内容を1,2ご紹介すれば:

第1スキット:ライナス「この小さな苗はすてきだね」
第2スキット:チャーリー「そうだね」
第3スキット:チャーリー「これが大きく育ったときには、ぼくたちもうここにいなくて、見られないなんて残念だ。」
第4スキット:ライナス「どうして? ぼくたち、どこへ行くの」

 このスキットを見て思い出すのは八木重吉の詩の1節です:

木と草には天国のおもかげがある
もう動かなくてもいいという
その事だけでも天国のおもかげをあらわしているといえる

 これと並んで、チャーリーと妹のサリーが学校へ行くスクール・バスを待っているところで、

第1スキット:サリー「お兄ちゃん、天国へ行くときも スクール・バスで行くの?」
第2スキット:チャーリー「いんや、天国へ行くときは、金の馬車がお迎えに来て、それに乗って行くのさ」

 もう1つ:

第1スキット:ルーシー「大水、火事、飢饉」
第2スキット:「破滅、敗北、絶望」
第3スキット:「なんの効きめもなさそう・・・溜息」
第4スキット:「スヌーピーの邪魔をできるものは 何もないんだわ!」

 ルーシーが叫んでいる目の前で、スヌーピーは喜び踊っている姿が描かれています。人生のマイナスと思える出来事があっても微笑みを浮かべながら喜び働くスヌーピーこそは、イエスがこの農夫に託した生き方を表わしています。

 ある学生のコメントです:「失敗や不安があるのは誰だって同じです。自分が正しいと思える道でも、死に至る道でもあり、逆に、喜びが来ることもある、とスヌーピーに教えられて、自分の気持ちが楽になりました。大学受験に失敗した今となっては(大学入学直後の5月)、本当に私は無意味なのではないだろうか、と不安に襲われることが屡あるのです。本文では、まず、神を信じ、そして、人生に意味と希望を与えてくれる、とあったので安心しました。また、本文を読み、一人ぼっちの人間なんていないことを知り,また、失敗をしない人間もいないことを知ってホッとしました。(そのほか、兄を交通事故で亡くし、祖父を病で亡くした学生が、スヌーピーを通して、癒された体験などが私のもとに届いています。まさに、『ピーナッツ』は聖書、とりわけ、福音書の譬話の現代版であることを聴いて嬉しく思います。

 「種蒔き」の譬について、教会で施された解説にも感謝したいと思います。私たちが、主の御言葉を熱心に聞き、よい畑となって、豊かな実りを主に捧げることは私たちの勤めであり、祈りでもあるからです。しかし、また、人生の中で失敗を繰り返して来た私たちに、くじけることなく、そうした失敗は、たかだか、一つ一つに過ぎないこと、そして大多数の働き、命そのものは、必ず良い実りを齎して下さると言う信頼を神に寄せながら生きることも何と素晴らしい御言葉ではありませんか。天国とはそういう失敗にも関わらず、神に信頼をよせて生き続ける人々の交わりであるからです。イエスは今も、そのような人々を、交わりに招き入れようとしておられることを銘記したいと思います。そのように開かれた教会であるように、今日も、主は人々を優しく励ましておられます。  本日は復活後第四主日の礼拝です。「歌え」(Cantate)と副題がついている通り、この礼拝で精一杯、主の復活を、このあと・祈祷の後でご一緒に声高らかに讃美したいと思います。ユダヤ教の安息日は土曜日でしたが、教会はこれを日曜日に改めました。それは、毎日曜日が、主の復活を覚え、その恵みに与かる復活記念日であるからです。一粒一粒の失敗や障害を乗り越えて、死の縄目から復活の希望に私達が生きるためでした。今日もその恵みを覚え、共に与かりたく祈りを捧げましょう。

祈祷:

 主イエスキリストの父なる神様
 あなたを信じる信仰を、どのような中にあっても、どうか、私たちが持ち続けることが出来ますように。人生の荒波に、もまれて方向を見失い、力も尽きてしまうほどの中におかれても、種蒔く農夫の譬を介して主が教えてくださったように、からしだね一粒のような小さく、か弱いものでも、あなたへの信頼を固く保ち、また、達しえた収穫がどんなに小さく見えても、あなたから頂いたものとして、感謝と喜びを捧げつつ、歩ませて下さい。


 
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