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特別講演会「アジアの平和のための教会の使命」トマス・マシュー

2014年8月3日(日)、平和聖日の礼拝後、南インド・ケララ州のキリスト教系NGOであるSEEDS-Indiaディレクターのトマス・マシュー氏を招いて、「アジアの平和のための教会の使命」という題のもと特別講演会を開いた。
マシュー氏は東方キリスト教に属するマルトマ教会の信徒で、宗教間対話のための国際的なNGOであるInternational Association for Religious Freedomの元・世界議長を務めたことがある。
アジア学院(栃木県西那須野)に留学したとき原子爆弾の被害に触れて以降、広島や長崎の被爆生存者との交流を続け、インドが核武装した時期に日本から初めて被爆者を証言者としてインドに招くなど、活発な反核平和活動を行っている。
冷戦終結から四半世紀が過ぎようとする今、宗教間と国家間の平和という課題は、とくにアジアで重要性を増している。その中で、教会が自覚すべき使命について聞いた。

 

アジアの平和のための教会の使命

トマス・マシュー
(SEEDS-India所長、宗教的自由のための国際協議会IARF・元世界議長)
2014年8月3日、代々木上原教会にて

 

 主イエス・キリストにある兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。今日、アジアの平和と教会の使命について私の考えを、皆さんと分かち合えることを感謝します。

 アジアは世界で最大の人口をかかえる大陸であり、なおかつ多数の宗教が生まれた地域です。そこにキリスト教も含まれ、私たちは地上のイエスについての物語を、平和の王子のそれとして思い起こすことができます。彼は罪人たちと共に食事し、彼の殺害者たちを赦して、彼らのために祈りました。彼はたくさんの権力筋から命をつけ狙われましたが、いつも静かでした。そして平和が命の本質的な構成要素であることを人々に示しました。

 私たちのもとには毎日、暴力にまつわる暗いニュースが、世界中から飛び込んできます。イラク、イラン、シリア、エジプト、北朝鮮、パキスタン、アフガニスタン、スーダン、ミャンマー、イスラエル、パレスティナなどからです。しかし皆さんや私のようなキリスト者が新約聖書を紐解くとき、そこに非暴力という神の良き知らせを見出します。暴力と混乱が世界に蔓延する中で、キリスト者はイエスの生とメッセージの中に、ひとつの明瞭さを発見します。イエスは神性の本質を啓示します。彼が私たちに示すのは非暴力の神です。神の受肉としてイエスは非暴力の神を具現し、非暴力を教え、またその実践に人生を献げました。

 したがってキリスト者が非暴力を学ぼうとするなら、イエスの非暴力から話を起こすのがよいでしょう。福音書はイエスを、神の行動的な非暴力というイメージで描いています。それは、この世界が暴力の悪循環から脱け出すためでもあります。以下の五つのパースペクティヴが、福音書が描く非暴力的なイエスに特徴的です。すなわち(1)非暴力の受肉としてのイエス、(2)非暴力の預言者としてのイエス、(3)非暴力の教師としてのイエス、(4)非暴力のモデルとしてのイエス、そして(5)非暴力のしるしとしてのイエス。

 福音は平和の神が人になり、平和を作り、平和を語り、平和を行動しながら、また受難しつつ地上を歩んだと宣言します。それは人々が互いに平和のうちに、また神との関係においても平和のうちに生きることができるようになるためでした。ルカ福音書で天使たちは、非暴力的メシアの誕生を告げて、これを神が人類に与えた平和のプレゼントであると言います。「いと高きところでは神に栄光、地では神の好意が宿るところの人々に平和あれ」(ルカ2,14)と、天使たちは歌います。またマタイ福音書は貧しく、社会の片隅に追いやられた難民一家の子どもとして、神が人間の歴史に介入したと記しています(マタイ2,13-23)。死に彩られた帝国の真ん中で、神は貧しく、抑圧された人々の傷つきやすさを抱きしめながら、彼らの側に立つことにしたのでした。イエスの誕生を彩っているのは貧しさだけではありません。そこには帝国の暴力という要素もあります。ヘロデ大王はローマ帝国の家臣ですが、神の受肉に対する彼の反応は、非暴力の子ども、神の非暴力の息子の殺害を試みるというものでした。イエス誕生の知らせを受けて、何千人もの男の赤ちゃんが殺されたのです(マタイ2,16-18)。

 互いに傷つけあったり、殺し合ったりすることを止めるよう、受肉の神は私たちに呼びかけます。神は人の命をよしとし、私たちの世界に現臨する者となったのですから。受肉した神は、あらゆる非人間的な振る舞い、あらゆるレベルの暴力に抵抗するよう私たちに促します。受肉と共に、私たちは倫理的にも霊的にも互いを傷つけたり、殺したりしないという責務を負うのです。あるいは新約聖書が言うように、私たちの一人となった平和の神を、私たちは心の中にもちます。それゆえ受肉は、まさにそのできごとを通して、あらゆる殺戮とあらゆる不正義を拒否します。神は人類のそば近くいることを選び、人となることで人の命に名誉を与えるからです。

 聖ルカが伝える愛敵の教えはさらに強烈です。彼は戒めを反復し、さらに自分の持ち物を敵と共有するように、という言葉をつけ加えます。「君たちの敵を愛せよ。よきことをなし、返してもらえることを期待せずに貸せ。そのとき君たちの報いは大きいだろう。そして君たちは至高者の息子たち、娘たちになる。神は恩知らずで自分勝手な者たちにも慈悲深いのだから」(ルカ6,35-36)。敵への愛はキリスト教的な愛を普遍化するのみならず、それを非暴力的なものにします。

 アジアでは――そこが諸宗教の〈ゆりかご〉であることを私たちは誇りにしていますが――同時に異なる宗教、国家間そして文化間で平和を維持するための格闘が続いています。今日の世界は非常に分断されている一方で、さまざまな社会メディアによって結び合わされていることを、私たちは誇りに感じています。しかし現代の通信技術によって近しくなった一方で、私たちは誰が隣に住んでいるのかも知らないというありさまです。つまり私たちはより包括的な社会に生きていると同時に、プライヴァシーの名によって生活のありとあらゆる領域に境界線が引かれているのです。

 私は1988年、学生として広島を最初に訪問しました。資料館の展示はたいへん衝撃的で、パワーゲームのために人間が人間に向かってこんな所業を行ったことが信じられない思いでした。私のキリスト教信仰はゆさぶりを受け、いったい私たちはどんな世界に生きているのだろうと考え込んでしまいました。誰を信じればよいのでしょうか? どうすれば世界をもっと平和なものに変えることができるのでしょう? 聖書を読む中で、「平和を作る者であれ。君たちは神の子と呼ばれる」という答えを見出しました。イエスは私たちに、互いに愛し合うよう教えました。たしかに私たちはすべての人を好きになることはできません。それでも彼らは私たちの主によって創造されました。ならば、その人々に対するレスペクトをもつべく、彼らと平和を結ぶべく私たちは努力すべきなのです。

 自分自身の社会の中で平和を作る者になる、という私の答えは、貧困と文盲、カースト制度に基づく差別と核兵器に抵抗するというかたちをとりました。貧困は平和の最大の敵です。貧困は人々を幸福にすることができません。地球上の七人に二人は食べ物がありません。市民が文盲であることは、世界の平和にとって有害な独裁者たちを疑問の余地のない指導者に仕立て上げるのに一役買っています。特定の階級をその出生によって差別することは人間のなせるわざであり、創造者によるものではありません。武器、とりわけ数秒で何百万人もの人々を殺戮する核兵器のような大量破壊兵器の開発は、反‐人間的であると同時に、反‐神的です。世界に存在する15,000発の核弾頭は、地球上の全生命を10回以上殺すことができます。キリスト者として、私たちはこのことについて黙っているべきなのでしょうか? 世界は神によって、私たちが平和に暮らすために創造されたのであり、そこで暮らす者たちを残酷に殺すためではありません。武器の開発および売買のための費用は、貧者のポケットからの略奪にほかなりません。

 第34代米国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはかつて、次のように言いました。「製造されたひとつの銃、進水した一隻の戦艦、発射された一発のロケットは、最終的には、飢える人々、食べ物のない人々、凍えており衣服をもたない人々から盗み取ったものだ。武装したこの世界は、ただ金を浪費しているだけではない。それは労働者たちの汗、科学者たちの才能、子どもたちの希望を浪費しているのだ」(1953年4月16日)。――これは世界で最も影響力のある政治家の一人が、人類社会の全体に向けた真摯な発言でした。

 あらゆる長い旅は最初の一歩から始まります。私たちが平和という旅に向かって、ささやかな一歩を踏み出すのに遅すぎることはありません。平和は私たちの家族で、私たちが暮らす地域で、私たちの教会で、私たちが人々に出会うところならどこでも始まります。

 今日、信仰と宗教が複数存在することは、ひとつの現実です。ですから私たちは宗教的な不信と不調和に抗して、宗教間の橋渡しをする対話のために働く必要があります。平和への使命を信じるキリスト者として、私たちは世界の平和を作る者になるという私たちの確信を用いて、国と国の橋渡しをすべきなのです。アジアの状況は非常に複雑ですが、その橋渡しをすることが私たちにはできます。なぜなら、平和構築がキリスト教のひとつの構成要素である、という私たちの信仰は明瞭だからです。

 皆さんに、神さまの祝福がありますように。

(日本語訳、廣石望)