代々木上原教会青年会の今年2月の会合では、「讃美の多様性」というテーマで、発題者のマーク・ダンカンさんを中心に、ワークショップのような形で実施されました。出席者は計8名でした。まず、ダンカンさんからの問題提起が以下のようにありました。
「『讃美』は色々な教会の活動の中でもあまり正面から取り上げられないテーマで、場合によってはおまけのような扱いになってしまうことが多いように感じています。また、なぜ我々は「讃美」をするのか、ということについて、きちんと教えられることも少ないのではないかと思います。では、そもそも讃美とは何なのでしょうか。そして、何故われわれは讃美をするのでしょうか。このwhatとwhyを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。」
この問題提起を受けて、出席者は4つのグループに分かれてディスカッションを実施しました。また、聖書の「讃美」に関連する箇所をいくつかダンカンさんがピックアップしてくれていたので、これをグループごとに読んでみました。このグループ・ディスカッションを通して様々な感想や意見などが出てきました。主なものは以下の通りです。
- 「讃美」と言われても、「祈り」や「感謝」に比べると、正直、何を指している言葉なのか今一つピンと来ない。
- なぜ日本語では「聖歌」ではなく「讃美歌」というのだろうか? 讃美は歌と強く結びついているのだろうか。
- バングラデシュの超宗派のテゼ共同体の集いでは、聖書も説教もなしという中で、聖書の中の短いフレーズに簡単なメロディーを付け、皆で何回も繰り返し歌うだけという活動をしている。エキュメニカルな動きの中で出てきた一つの実例だが、これも讃美の良い例と言えるのではないか。
- アメリカ黒人社会では、キリスト教そのものへの興味というよりも、むしろゴスペルへ参加することを通じてクリスチャンになるというパターンが多い。ゴスペルは讃美の力を持っていると思う。
- 伝道という観点からすると、讃美の力はクリスチャンでない人たちにも伝えやすい。
- 讃美と祈りの違いは何だろうか。讃美は普通、二人以上で行う行為である(ハレルヤを皆で唱和するなど)。讃美は、歌や詩など美的なものにかかわる(ちなみにイランは詩の国です!)。讃美では、皆がそれに集中し、夢中になる。讃美において、人は神様との一体感を感じる(イスラム教のスーフィズムとも共通点があるかもしれない)。
- 人間と神のかかわりの形として、祈りや感謝とともに讃美という形がある。讃美は特に神にしかない性質(力・知識・愛など)を褒め称えるという側面がある。我々が神の恩恵を受けているということから讃美が出てくるのだと思う。
・カトリックでは懺悔や秘蹟など儀式的な行いが多くあるが、プロテスタントの場合はそういうものがないので、讃美の占める位置が相対的に大きくなってくるのではないか。 - 旧約聖書を読むと、讃美は「歌」「喜び」を伴うものであり、それが主なる神の「正しさ」に結びつけて捉えられている。「歌」は琴や笛などの器楽も伴っている。
- サムエル記(下)には、裸になって神を讃美するシーンがある。このシーンは何を意味しているのだろう。
以上のようなディスカッションを経たあとに、ダンカンさんからのまとめの言葉が以下のようにありました。「私は、信仰生活には『御言葉』『祈り』『交わり』『讃美』の4つの柱があると考えています。このうち、たとえば御言葉はわれわれの知識に、祈りは心に深くかかわってきます。では、讃美は何にかかわってくるかと言うと、それはわれわれの「体」だと思います。体を使って表現することは、ときには少し恥ずかしいこともあります。しかし、五感で感じながら、体を使って讃美するということを通して、より充実した、健康な信仰生活を送ることができるのではないでしょうか。」
そして会合の最後には、ディスカッションだけではなく是非実際に体験してみましょうということで、このような「身体性を伴う讃美」の実例として、インターネット上の動画サイトYoutubeで、ハワイのフラダンスを取り入れた讃美の踊りを皆で鑑賞したり、自由に振り付けをつけながらダンカンさんオリジナルの讃美歌を歌ったりしました。この「振り付けつき讃美歌」は参加者の多くが予想以上に楽しんでいたので、今後も有志で活動を続けていくことになるのではないかと思います。
以上、青年会らしいとても若々しい内容の活動ができたように思います。今年もこの調子で青年会の活動が生き生きと広がっていきますように、そして、青年会の活動に連なる全ての人々(もちろん、青年だけではありません!)の上に、神の恵みと導きが豊かにありますように、お祈りいたします。(K.M.)