代々木上原教会のウェブサイトはリニューアルされました

ここは2022年3月までのアーカイブを掲示しています。
最新の情報はリニューアルされたホームページをご覧ください。

代々木上原教会公式サイトへ

聖霊降臨節第15主日

聖霊降臨節第15主日

 

教会からのお願い

コロナウイルスの感染者が増大しております。インターネット環境をお持ちの方は、できる限りご自宅で礼拝のライブ配信をご利用ください。

 

聖霊降臨節第15主日礼拝

礼拝式文(聖書・讃美歌)

  • キリスト教学校の生徒の皆さん、その他「週報」がお手元にご入用の方々へ:この「礼拝式文」をダウンロード、プリントしてご利用ください)

 

本日の集会

 

今週の集会

  • 祈り会(Zoom):9月1日(水)10:30~11:30

 

次週予告(2021年9月5日)

  • 定期役員会(Zoom):14:00~16:00

 

教会カンファレンスのごあんない(Zoom)

「キリストにある」とは?――聖書翻訳を読み比べる

2021年9月19日(日)

  • 10:30~11:10(開会礼拝・中村牧師)
  • 13:00~15:15(講演・廣石牧師、グループ別対話等)

 

牧師室から

 ギリシア神話の「パンドラの箱」のエピソードによれば、幸福をもたらすと見えた箱(甕)が、じっさいにはあらゆる災厄を人にもたらし、箱の底には「希望」だけが残った。F.W. ニーチェの解釈では、希望は「最悪の災厄」であり、人の苦悩を長引かせようとする神々の策略だ。

 つまり非合理的で、理性を麻痺させるもの、危険な自己倒錯また無知にもとづく幻想として、もともと余計であり、賢者には相応しくないのが「希望」というわけだ。

  しかし別の意見によれば、「希望」は己の体験のみに基づく、単なるポジティヴ・シンキング的な願望でなく、むしろ未だ現実でないものへの予感だ。希望は自己倒錯でなく、批判的に根拠を問う能力があるという。

 キリスト教信仰にいう「希望」は、神が与えるものであり、初めから人間の能力(徳目)を超える。

 そのとき、〈死んだら天国に行けますよ〉式の現状肯定に、「希望」を悪用してはならない。戦争や内戦による虐殺と難民流出、人種・宗教・国籍・性別その他による差別、原発のメルトダウン事故がもたす破壊と苦しみ、パンデミックが顕在化させる社会格差など――紛れもない「悪」の現実を、些末なものであるかのごとくカモフラージュするのが希望の役割ではない。

 真の希望は、人がこの世で生きる日常的な態度を変える力であり、被害者の傷を共同体が記憶しつつ、加害者との新しい共生を模索することにある。

 被害者と加害者、過去想起と未来構築の間にある〈亀裂〉は、新しい生き方が、過去の過ちへの正当な想起を含むことによって克服されねばならない。

 ――「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」は、希望の宣言なのだ。(廣石望)