2021.08.29

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*説教の冒頭部分、録音が欠落しています。

「新たな希望」

廣石 望

ヨブ記4:12〜20コリントの信徒への手紙二 4:7〜16

I

 全世界がコロナ禍にあり、社会や経済、政治や医療、また人々の心理などのあらゆる領域で、この禍いが引き起こす問題にどう対処すべきかという課題に、私たちは直面しています。こうした危機意識が全世界的に共有されるという現象はじつは珍しく、本来ならば積極的な対話と連帯の促進が望まれます。――ドイツ国内では、人々の連帯がかつてないほど高まったという声も聞きます。

 しかし明らかに、逆方向の現象もあります。この危機はある国の内部で、また富める国々と貧しい国々の間で、以前から存在する社会格差をいっそう顕在化させました。あるいは、すでにあった孤立や孤独をいっそう浮彫りにし、耐えがたいものにすらしています。今の日本では医療体制がひっ迫し、自宅で孤独死する可能性が現実のものになりつつあります。

 助け合い、支え合うことができればよいのですが、なにぶんにも顔と顔を合わせて会うことができません。だから友人関係を新しく結ぶことも、あるいはすでにある(はずの)信頼関係を維持することも容易でありません。大学生はオンライン授業を受けても、友だちにはなれません。行動が制限される中で自分の命と生き方を守るために、以前からの関係を見切ること、断ち切ることもあるでしょう――そのこと自体は、よいことでもありえます。

 大きな不安と恐れの中で、私たちは何を頼りに、何に希望を見出して生きるでしょうか。

II

 今日の聖書箇所は、使徒パウロが数年前、ギリシアの港湾都市コリントに自ら設立したキリスト教共同体に宛てて執筆した書簡の一部です。

 彼は、自分がこの教会の生みの親であり、キリストの「使徒」であるという自覚を持っています。しかし現代の牧師とは異なり、教会の牧師館に常駐せず、ずっと宣教のための旅をしていました。この書簡も、エーゲ海を挟んでギリシアとは反対側の、小アジアの都市エフェソで書かれました。

 私たちの手元にはパウロの発信した情報のみが残されており、コリント教会からの発信ないし応答は失われました。なので、両者の間で何があったのかは、もはや正確には分かりません。しかし、どうやら他所から、立派な推薦状――今でいう履歴書(?)――を携えてやってきた宣教者たちの影響もあってか、教会の中には、パウロが自分たちの「使徒」であることを疑う人々が出てきたらしいことは読みとれます。

III

 直前の文脈で、パウロは、キリストを伝える使徒としての務めが、旧約聖書で神の律法の賦与者としてのモーセの務めをはるかに凌駕する、栄光に満ちたものだと言います(3:1-18参照)。しかし、それと表裏一体のものとして、決して輝かしいとは言えない側面が、この務めに伴うことを正直に認めるのが、本日の箇所です。

しかし、私たちはこの宝を素焼きの器の中にもっている――力の横溢が神のものであり、私たちから(来るの)でないために。(7節参照)

 「この宝」とはキリストの使徒として「新しい契約」に奉仕することの輝かしさを、また「素焼きの器」とは彼の限界や壊れやすさを意味するでしょう。そのとき人間一般の弱さだけでなく、パウロ個人の弱点が念頭に置かれている可能性があります。〈あの男の手紙は重々しくて立派だが、じっさいに会ってみると何とも貧相な男で、話しもつまらない〉と、君たち自身が私について噂していると彼は言います(10:10参照)。加えてパウロには、慢性的な持病があったようです(12:7参照)。

 しかし、そうした弱点もまた、「力の横溢が神のものである」ことがはっきりするためなら、かえって好都合だと彼は言います。

万事において圧迫され、しかし隘路に追い込まれてはいない者たち、
途方にくれ、しかし途方にくれ尽くしてはいない者たち、
迫害されるが、見棄てられてはいない者たち、
投げ棄てられるが、滅びてはいない者たち
――(そのような者として)いつもイエスの殺害を(自分の)体で運びまわりながら。
(それは)イエスの命もまた、私たちの体においてあからさまになるため(なのだ)。(8-10節参照)

 「xであるが、しかしyではない」という表現がつごう4回繰り返されます。パウロの人生が、楽勝でなかったことは分かります。しかしこの発言は、〈苦難の現実は、神のおかげで少しだけ減じられている〉という意味なのでしょうか――じっさいパウロはつい最近、絶体絶命のピンチを切り抜けています(1:9-10、また1コリント15:32を参照)。それともこれは〈苦難はそのままだが、それもまた神の力が現れるためだ〉という意味なのでしょうか。

 「イエスの殺害を(自分の)体で運びまわりながら」とは、彼に加えられた鞭打ちその他の暴行による体の傷跡への暗示だろうと言われます。また「イエスの命もまた、私たちの体においてあからさまになるために」という言葉は、イエスの復活の命への言及でしょう。ならば、苦しさはいささかも減じられることのないまま、そこに「復活の命」があからさまになるという、ある意味で逆説的な認識がここにありそうです。

生きている私たちはつねに、イエスのゆえに死に引き渡されるのだから――イエスの命もまた、私たちの死すべき体においてあからさまになるために。(11節参照)

 イエスは拷問と処刑による死を通り抜け、そして神によって新しい命へと起こされました。パウロは、この運命を自分の生においてもなぞろうとしているかのようです。しかし、それが彼個人の勝手な思い込みによる願望、ないし負け惜しみでない保証はどこにあるのでしょう?

IV

 それを判断するのは、きっとコリント教会の人たちです。

その結果、死は私たちにあってその働きを発揮し、命は君たちにあって(働きを発揮する)。(12節参照)

 「命は君たちにあって」――つまり神がもたらす新しい現実の働きを、パウロの宣教活動に見出すか否かについての判断を、パウロは、内部的にも多様で彼に疑いを抱きもするコリント教会の人々に委ねます。彼は他人の役に立ちたいと願っています。その意味でパウロは、孤立した一匹狼として危機の中を生き抜こうとするタイプとは少し違います。

 同じことをパウロは、未来への希望としても述べます。

主イエスを起こした者(神)が私たちをもイエスと共に起こし、君たちと共に(御前に)立たせるであろうことを知りつつ。(14節参照)

 「君たちと共に」――ここでも、イエスに生じた運命が自分だけでなく、コリント教会のメンバーたちにも生じることがパウロの希望です。彼の希望は、その意味で共同体的です。

V

 聖書によれば、私たちは大地の塵から作られ、どのみち有限で壊れやすい存在です。能力や才能にも限界があり、どんなにプライドがあっても間違うこともあります。

 宗教改革者マルティン・ルターは、「大教理問答」(1529年)と呼ばれる信徒向けの説教の中で、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3)というモーセの十戒の第一戒について、こう述べました。

一人の神をもつとはどういうことか、あるいは神とは何か? 一人の神とは君があらゆる良いものをその方から期待し、あらゆる困難にあって逃げ場である存在だ。だから一人の神をもつとは、その方に心から信頼し、信じること以外を意味しない。よく私が言ってきたように、心の信頼と信仰だけが二つの存在、つまり神と神ならざる者(偶像)を作る。信仰と信頼が正しければ、神もまた正しい。他方で信頼が誤りであり、正しくないなら、そこに正しい神もまたいない。信仰と神の二つは、ひとつながりだからだ。(私は言おう)君が心の拠りどころとするもの、それが君の神だ。

 人は誰でも「神」をもっている――心の拠りどころとして。私より「前」から存在し、私より「上」にあり、私より「後」にもあるもの――それをキリスト教は「神」と呼んできました。

 お金や健康あるいは自分自身を含め、世界の中にあるすべてのもの、つまり被造物でなく、むしろあらゆる良いものの創造者である神に、すなわちイエスを死者たちの中から起こした神にのみ信頼を寄せることが、私たちの希望です。

だから私たちはへこたれない。私たちの外なる人が朽ち果てても、私たちの内なる(人)は日々新たにされる。(16節参照)

 この自覚は、それこそ外目には決して分からない、むしろ人と人の心のふれあいの中でこそ感じ取られることがらであり、私たちの共なる希望の根拠です。そのような復活のキリストの証人として、私たちも歩みましょう。


 
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