8月からのテーマは「マルコによる福音書」です。 毎週、小見出しのついている段落を一つずつ読んでいます。
3章:手の萎えた人をいやす
- イエスは「真ん中に立ちなさい」といわれた。どうして?
- みんなに(病気が治せることを)見せびらかしたかった?
- これからみんなの前で「律法破り」をしようってのに?
- 『律法を破ってもいい』ことを見せたかった?⇒それは違う。イエスさまは律法を破っていいとは言っていない。⇒ マタイ5:7 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
律法と、律法によって守られる(はずの)もっと大事なものについて。
たとえば学校のきまり(校則)にはこんなのがあったりする。
- 厚底靴を履いてきてはいけない。
- 廊下を走らない。
- タバコを吸ってはいけない。
でも、こういうきまりがもともと守りたかったものは、「みんなのからだ」でしょ? でも、「自分とまわりのともだちの、いのちとからだを大切にしよう」と言ってもぴんとこない人がいるかもしれない。 だから、きまりはより具体的に、細かくなっていってしまうんだ。
律法も同じ。本当に守りたかったものは一つ、いや二つかな。
わかった! 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 と、『隣人を自分のように愛しなさい。』だ。!
おおぉ。すげ。
2章:中風の人をいやす
- 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか? (無言…わからない。)
- じゃたとえば、ガンで苦しんでいる人の『ガンの苦しみ』(痛みとか、吐き気とか)を治療してあげるのと、『ガンそのもの』をなおしてあげるのと、どっちが易しいか。ガンの患者にとって、症状がよくなったことと、『ガンそのもの』が治りましたよ、といわれることとどっちがうれしいか?
- 『罪が赦された』というのは、その時代の人にとっては、『病気の根源がなくなった』ということ。イエス様はそこまで言ってあげたかった。
「イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
- イエス様も、祈る。というところに単純に感動します。
- イエスさまだって人間だからじゃないの?
- 自分も祈らないと伝道している手前、ほかの人に「しめしがつかない」からとか。
9月17日:「多くの病人をいやす」
- ところで、まだ1章かよ?
マルコ終わる頃はみんな大学生とかになって、「今日の青年会の聖書研究はマルコ15章・・・」とかやってたりして?
- 「悪霊はイエスを知っていた」って、悪魔の情報網ってすごいね。
事前に知っていた、というより、その瞬間にイェスさまがすごい方だって事を察知したって言う意味じゃないの?「おぬし、デキるな!」っていうような。
- ヨハネによる福音書には、この事件は書いてないねぇ。
ヨハネってちょっと変わってるよね。
他の福音書には書いてあるのにヨハネにないとか、逆にヨハネだけが書いている記事も多い。
- そういえば、福音書を書いた人ってイェスのお弟子さんでしょ? マルコは自分が弟子になったところを書いてないねぇ。マタイとヨハネはあるけど。
マルコは12弟子の中の1人ではない?
9月10日:「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ってあるけど、
- 「律法学者のような」
- 「権威ある者として」
ってどういう事だと思う?
「権威」って言えば、「言葉をください」って言った誰かがいたような?
カファルナウムの百人隊長の話。 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(マタイによる福音書8章8-9節)
百人隊長は、上の人から自分に与えられた「権威」によって、下の兵隊が、自分の命令に従う事を知っていた。だから、イェスさまから「権威」を与えてもらえば、病気(悪霊)も自分の命令を聞くと思った。
9月3日:「四人の漁師を弟子にする」
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にし
よう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。
- ペトロと呼ばれるシモンってマタイによる福音書には書いてあるけど、イェス様が勝手にそう呼んでたの?
マルコによる福音書3:16に「シモンにはペトロという名を付けられた。」って書いてあるから、イェス様がつけたニックネームらしいね。 「岩」という意味だって聞いた事がある。 (頑固で、言い出したら聞かない性格だったから?)
- それにしてもあっさりついていきすぎ。初めて会った見ず知らずの人に「ついてきなさい」っていわれてすぐ行くか? 普通2、3日考えるとか。
- この時はイェス様はまだ有名じゃなかったんでしょう?
- あぶないよね。 オ○ム真理教にさらわれてったのと同じ?
- それに、網とか舟とか、それがなくちゃ漁師として生きていけない大切なものをいきなり捨ててるし。(親も!)
やっぱりイェス様にそれだけの力というか、真実があったんじゃないかな。オ○ムとは違うよ。
- マルコによる福音書ってマルコさんっていう人が書いたんでしょう? 実際に見て書いたの?
- あとでローマに支配されたんでしょう? ローマが聖書を焼いちゃったりしなかったのかなぁ。
- イェス様やお弟子さんたちが、伝道のために村をめぐって歩いたとき、よくいつも泊めてくれる人がいたねぇ。
福音書は日記や新聞記事のようにその日あった事を記録として書いていったわけじゃないんだ。実際には、一番古い福音書でも、イェス様が十字架につけられて、死んでよみがえられたあと、何十年も経ってから書かれているし、他の福音書を読んでそれを参考にした上で、自分の考え方で新しく書いた人もいる。だから、良く似ている記事もあれば、順序が違っていたり、内容が少し違っているものもある。
みんなも、家族で旅行に行った思い出を、あとで書いても、兄弟で書いている内容がずいぶん違う事があるでしょう。人それぞれ、同じ事にめぐり合っても印象は違うし、「どうしてもこれは書いておきたい」というポイントも違うから。
- 十人十色。
聖書が侵略者たちに焼かれちゃった事はあった。 でも内容を全部覚えてて、また後で書き直した人もいたんだ。 昔の人は、印刷の技術とかなかったから、すべて口で伝えよえ(口承)ていた。 だから記憶力も今の人とはくらべものにならないほどすごかった。
それから、田舎では今でもそうだけど、旅人に親切だった。 テレビやインターネットなんてないから、旅人から話を聞くのは楽しかっただろうし。
- 快く泊めてくれない場合だってたくさんあったと思うよ。 いちいち聖書には書いてないけど。
8月13日: 「伝道を始める」
英語の聖書と読み比べてみよう。
- [新共同訳]「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
- [NKJV]”The time is fulfilled, and the kingdom of God is at hand. Repent, and believe in the gospel.”
- [TEV] “The right time has come,” he said, “and the Kingdom of God is near! Turn away from your sins and believe the Good News!”
ゴスペル?
そう。 あのゴスペルソングのゴスペルって、「福音」って意味なんだね。
TEVは、あえてわかりやすく意訳している。
- 「時は満ち」=「(・・・に適した)時が来た。」
- 「悔い改めて」=「罪から離れ(方向転換し)て」
- 「福音」=「(神さまからの)良い知らせ」
8月13日: 「荒野の誘惑」(参照 マタイ4章、ルカ4章)
- マルコはちょこっとしか書いてない。 マタイとルカとでは誘惑の順番が違う。
- ルカ4章13節に、「(悪魔は)時が来るまでイェスを離れた」ってどういう意味?
後になってイェスに悪魔が寄ってくる伏線?(マルコ8:33で、ペトロに「サタンよ、引き下がれ」というところなど。)
- 「石をパンに変えてみろ」っていう誘惑はどういう意味があるの?
神さまからもらった自分の能力で、人を助けるのではなく自分だけを満足させてしまいたくなる事。 たとえば僕たちもよく、他人が、自分よりも劣っているところを見つけると、キモチヨクなる。他人を助けるという「神様に喜ばれる」行為には、それにより自分が優越感にひたりたいという誘惑がひそんでいる。
8月6日: 「イエス、バプテスマを受ける」
- 神さまとイエスさまと聖霊の関係が良くわかんない。 同じような、同じじゃないような。
父なる(この世を支配される)神さまと、いつもとなりにいてくれる神さま(イエス)。聖霊は私たちの心のなかにきて、心の扉を内側から開けてくれる神様のちから。