小預言書のミカ書から学びます。イスラエル民族の歴史は紀元前二千年頃の族長物語から始まりますが、紀元前千年以降の王国時代に入りますと、俄然賑やかな様相を呈してきます。それだけイスラエル社会が複雑化していったということですが、中でも紀元前八世紀は激動の百年と言えます。王国はすでに北と南に分裂していましたが、千百年頃に勃興したアッシリア帝国が徐々に力をつけ、シリアを呑み込んで次第に南下しつつありました。八世紀前半は北のヤロブアム二世、南のウジヤというやり手の王によって両国共に経済的繁栄の時代を過ごすのですが、後半は共に繁栄のつけでもある社会の不正や信仰的堕落などに陥り、次第に国力を落としていきました。ミカという預言者はそうした八世紀の終わりの四半世紀に南王国で活動した人物です。
ちょうど同じ時代にエルサレムではイザヤが活動しています。二人の関係は不明ですが、ミカの4章1-3節とイザヤの2章2-4節はまったく同じですから、何かつながりがあったかもしれません。あの有名な 『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする』 という箇所です。イザヤは王のブレーンである貴族であるのに対し、ミカはどうも農民出身らしいのです。両者共王国の堕落を厳しく糾弾した点は共通ですが、イザヤが信仰思想の土台をダビデ王朝やエルサレムに置いているのに対して、ミカは反都市的で、被抑圧者側に立ち、歴史の原点も族長時代にまで遡って求めています。とにかく、ミカはそうした人物ですから、アッシリア帝国に侵されていく両王国の姿を信仰者の視点から冷静にかつ厳しく見つめていました。
さてそうは言いましても、ミカ書全体がミカ本人の言葉から成り立っているわけではなく、彼の時代から百年後に起こったバビロン捕囚という民族最大の悲劇の時代に、捕囚民たちはミカの預言を忘れていなかったらしく、新たな視座からミカの預言に言葉を加えてまとめ直したらしいのです。ですから本来のミカ本人の言葉を残しつつミカ書が最終的に一巻の書物として成立したのは、バビロン捕囚後だと見られています。
きょうのテキストですが、1章の初めからすぐ直前までに語られている神の厳しい審判の預言を受けて、裁きの言葉の中に苦難の時代を生き抜く上での希望の言葉を付け加えたと思われます。主なる神は12節の冒頭から力強い一人称で「ヤコブよ」と呼びかけます。ヤコブが神から頂いた名前がイスラエルですから、これはイスラエルの民への呼びかけでもあります。ずっと語られ続けてきた厳しい裁きの言葉の中に、一条の救いの光が示されているわけです。
12節では 『残りの者』 を集めるという表現で救いが語られます。『残りの者』 と言えば、これはイザヤ書のキー・ワードでもあるのですが、同胞が堕落していく中で、少数のヤハウェに対する忠誠者をこう呼び、 『残りの者』 から「新しい神の民イスラエルは再スタートする」 という宣言です。 それは民の罪にも拘らず、その民を守り導く神さまの憐みの発見でした。それは、いつか将来新しいメシアが与えられ、その人によって全世界に本当の平和が来るに違いない、という希望です。将来の希望としてのメシア宣言です。
驚くべきことに、キリスト教会は伝統的に、このミカのメシア預言をイエス・キリストを指すものとして解釈してきました。クリスマスが近づきつつありますが、マタイ2章のクリスマスの記事の中にこういう引用があります。『王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。“ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。〈ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである〉”』。
先ほど引用した「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」という箇所も終末の平和を見事に描くものとして教会の中ではたびたび引用されてきました。これも民の「残りの者」を集めるという救いのイメージです。12節の後半には羊飼いのイメージも出ています。主なる神さまはイスラエルを羊を集めるように囲いの中に集める、とあります。それに続いて13節では「門」が出てきます。「打ち破る者が彼らに先立って上ると、他の者も打ち破って門を通り、外に出る」とあります。
この記述の背景には、おそらく紀元前701年の新バビロニア軍によるエルサレム包囲の出来事があります。つまり民は一旦エルサレムに集められ、包囲された後、今度はその門を通って解放されるという解釈です。実際南王国ユダは結果的に、この時かろうじて生きながらえることができましたが、その内実は新バビロニア帝国の属国となったということですから、まだまだ解放とは程遠いものです。ともかくも捕らわれ閉じ込められた場所から解放されるイメージが確かにあります。
その解放者に、後の教会はイエス・キリストの姿を重ねました。主が先頭に立って城門を打ち破り、民を外に導くのです。第二イザヤはバビロンからの解放とエルサレムへの帰還を語りましたが、そうした歴史のイメージも重なっているかもしれません。私たちキリスト者は、神さまを歴史を導く主と捉えます。イエス時代よりも何百年も前に、ミカやその後の編集者たちが、歴史を導く主なる神が救済のわざによって主権を明らかにすることを語っていたのです。
きょう私たちは収穫感謝の礼拝を守っていますが、その由来は旧約の人々が主なる神さまを身近に感じて、与えられた収穫物を恵みとして頂いたことへ感謝の供える捧げる行為でした。旧約の民は神さまを身近に感じることにおいて、素直で力強く、現代の私たちをはるかに凌駕しているかも知れません。神さまを感じるという感覚はとても重要なことだと思います。
私たちには、その感覚をより確かなものにするイエス・キリストという特別な存在が示されているのですから、私たちは神さまを又イエスさまをしっかり感じたいと思うのです。皆さん、どうでしょうか? ミカという古代の預言者の言葉を通して、神さまを、あるいはイエスさまを、少し身近に感じられるようになったでしょうか。来週はいよいよ待降節・降臨節・アドベントに入ります。クリスマスに向かっての日々を大切に、味わい深く過ごしてまいりましょう。祈ります。