2016.11.27

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「新しい抑圧なき社会へ」

秋葉正二

イザヤ書61,1-6ルカによる福音書4,18-19

 トランプ大統領の誕生で世界はこれからどうなっていくのか、どの国も固唾をのんで見守っています。 戦後世界の常識がこれからは通用しなくなるかもしれません。 オバマさんは少なくとも国際社会との協働を目指していました。 それが戦後世界の秩序だったからです。 で、多くの人はトランプ大統領がそうした秩序そのものに関心がないのではないか、と心配しているのだと思います。 でもよく考えると湾岸戦争の頃からすでに世界の秩序は崩れかかっていて、アメリカ一極ではない多局化が始まっていたように思えます。 ですからおそらくこれからは不確実性の時代に入っていきます。大国が軍事と経済の分野で力を示そうとするのは間違いないことでしょうが、私が一番気になるのは、自由とか民主主義という理念がどうなっていくかです。 これは人間の文化の問題で、そこにはキリスト教信仰も大いに関わってきます。 イザヤ書61章のテキストを読んでいて、私はそんなことを考えながら、「新しい抑圧なき世界へ」という説教題を選びました。

 ご存知のようにイザヤ書は40章から55章までは、第二イザヤと呼ばれます。 ペルシャ王クロスがバビロンを占領する直前から、バビロンからの捕囚解放について預言をした無名の大預言者です。 創造伝承と救済伝承を統合した大思想家であると評価されています。 そして56章以下が第三イザヤで、個人かグループか分かりませんが、第二イザヤの弟子たちだろうと見なされているわけです。 第二イザヤがイスラエルの解放と「苦難の僕」と呼ばれるメシア像を示して、苦しみと死が代償的な価値を持つことを明らかにしましたが、それがあまりにもイエスさまの生涯を暗示しているようで、読んでいる私たちは驚くわけです。 第三イザヤは時代が少し後の捕囚解放直後になりますが、そうしたことをもう一度繰り返すように、イスラエルの解放と救いを告げるのです。

 テキストの61章にはまずシオンの解放を告げる「わたし」が登場しています。 小見出しには「貧しい者への福音」とありますが、内容はシオンの喜びと繁栄に帰結します。 「わたし」というのが苦難の僕、つまり第三イザヤで、彼のモノローグの形式をとって、シオン(エルサレム)へ語りかけています。 1節には 『貧しい人に良い知らせを伝えさせるために』 とあります。 貧しいといえば私たちはすぐ経済的に貧乏な人を連想しますが、捕囚後の困難な状況の中で苦しんでいる人全体を指しているわけで、必ずしも経済的な貧しさだけではないでしょう。 故国に帰還できたとは言え、何もないところからの再出発ですから、何もかも貧しく困難だったことは確かでしょう。 荒廃したエルサレムを見て、人々は絶望の中にいました。 そこで、「わたし(苦難の僕)」は〈解放〉を告げるのです。 打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、と謳いあげます。

 「捕われ人」は文字通り「奴隷」ではないでしょう。 捕囚後の社会でもまだいろんな意味で自由を奪われていた人がいたのだと思われます。 こうした人たちに「良い知らせ」を伝え、「慰め」を告げることが預言者の使命だと第三イザヤは自覚したようです。 マタイ福音書11章に洗礼者ヨハネの記事がありますが、イエスさまはヨハネから遣わされた弟子たちから 『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』 と尋ねられて、こうお答えになりました。 『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』。 後にイエスさまがこう語られたイメージが、ここにはすでに明確に出ているのではないでしょうか。

 そして続く2節では、引き続いて 「わたし(苦難の僕)」 が主によって遣わされた目的が述べられます。 「神が報復される日」とありますが、これはシオン(エルサレム)の敵と神への信仰のない者の上に、それが臨むということであり、神を信じる者にとって「主が恵みをお与えになる年」が、神の敵にとっては「報復される日」となるという意味でしょう。 もっとも「報復」といえば、普通は「仕返し」を意味しますが、ここでは仕返しをすることではなく、「正しい統治が回復される」ことが意味されているようです。 またおそらく、2節の言い回しの背後には、イスラエルにとっては非常に重要なレビ記(25,10)エレミヤ書(34,8・15・17)エゼキエル書(46,17)に出てくる「ヨベルの年・解放の年」が意識されていたと思われます。

 「ヨベルの年」という発想は、私などは読んでいて驚きを禁じえません。 紀元前の狭い民族社会の中のこととはいえ、民衆に目を向けつつ、彼らを生かし慰めるために、自由や解放について具体的にその方法まで定めていたというのですから驚きです。 それは古代イスラエルが持っていた一種の尊敬すべき人権感覚であったと私は考えています。 借金やその他の理由で奴隷とされてしまった人たちを解き放つシステムが考えられていたのです。 ちなみに、ヘブル語では「年」と「日」は、同じ「時」という意味で用いられます。

 3節になるともっといろいろな表現が出てきます。 「灰に代えて冠をかぶらせ」とか「嘆きに代えて喜びの香油を」などです。 3節全体を見てみると、「灰」「嘆き」「暗い心」という言葉の代わりに、それぞれに「冠」「喜びの香油」「賛美の衣」という言葉が与えられています。 これらはただ並べられているのではなく、たとえば、「灰」というヘブル語エーフェルと「冠」ペエールは、アルファベットの文字であるアーレフとペーが入れ替わるという語呂合わせになっています。

 当時、悲しむ者には頭に灰をかぶる習慣がありました。 喜ぶ時に油を注ぐ習慣のあったことはよく知られています。 こうした表現で第三イザヤが伝えようとしていることは、時を超えて通用する部分がたくさんあるように思います。 現代人の私たちだって、借金で首が回らなくなることはあるわけですし、借金取りに始終追い回されれば、それはお金の奴隷状態に置かれたようなものでしょう。 トランプ大統領のアメリカが心配だという不安にしても、第三イザヤ時代の人たちの抱えていた世界情勢への不安とある面で共通している点がたくさんあるはずです。 捕囚状態からは解放されたけれども、これからのイスラエルはどういう国家構築を目指すべきなのか、新たな王をいただいて再び王制国家をつくるのか、周囲の状況を考えれば難問山積だったでしょう。 だからここで「報復」云々というのは、外国を意識してイスラエル内部のことより対外的な報復が考えられているのかもしれません。

 確かにそうした可能性もあると思います。 しかしイスラエル人はそもそもが主なる神ヤハウェに従って歴史を刻んできた宗教的な民族でした。 そこに彼らが時代を乗り越えていく知恵とパワーの秘密がありました。 まず4節でははっきりとエルサレム復興の希望が語られます。 それに続き5節,6節ではエルサレムがどのように復興するのかが具体的な姿として示されます。 復興のために「他国の人々」や「異邦の人々」がエルサレムに仕える様子が語られています。 国づくりの労働などの苦労も自分たちだけではないよ、というわけです。

 異邦の人々の協力という対外意識が現れています。 同時に、そうした外国への意識に対抗するように、際立ったコントラストが示されます。 それがイスラエル人の知恵と力を象徴する言葉、カギとなる言葉で、6節に出てきます。 『あなたたちは主の祭司と呼ばれ、わたしたちの神に仕える者とされ……』 という文言です。 イスラエルの人々は主の祭司と呼ばれるというのです。 この言葉の背景にはもちろんシナイ山で神さまがモーセに語りかけた言葉があるでしょう。

 出エジプト記19章ですが、4-6節を読んでみます。 『あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れてきたことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる……』。 つまり、主ヤハウェにあなた方が特別の所有として属していることは、やがて祭司の王国が立てられ、聖なる国民とされることなのだ、ということです。

 一番の強調点は「祭司」という言葉です。 祭司は自由に聖所に出入りでき、旧約に何度も出てきますが、主なる神ヤハウェに言わば「近づく」ことのできる特権的な地位を与えられていた役職です。 祭司たちがそのようにして神に近づくのは、他者に代わって、祭司としての礼拝上の務めを果たすためです。 ちょうどそれと同じように、イスラエルは、国家制度を持ち王国という形で組織された諸国民に囲まれる中で、祭司の王国となるというのです。 国は国でも「祭司の王国」だというわけです。 ですからここでは、王国は王国でもイスラエル独自の国家制度が考えられています。

 さて、第三イザヤによるテキストは捕囚後初期のものですが、その時代環境の中で、あらためて、「あなたたちは主の祭司と呼ばれ」、人々はあなたたちを、「わたしたちの神に仕える者」と呼ぶであろうと言っています。 まだ神殿再建に手がつけられていなかった時代に、これから進むべき進路を第三イザヤは示しました。 もちろんそこではイスラエルの残りの者と呼ばれるイザヤ預言のキーワードとされる人たちが、今は恥辱の中で抑圧された状況だけれども、きっとそれは好転するという希望の文脈の中で、何よりもまず、諸国民はこの祭司たちに食べ物と栄誉を差し出しなさいという、新しい思想が現れています。 シナイ山のシーンでは神の側にいるという特権だけだったので、ここにはまったくなかった事柄が生まれています。 神殿における礼拝様式のあり方なども、ここから神殿再建につながりながら発展して行ったのでしょう。 それはまた、後の教会の礼拝の守られ方にも多少なりとも影響を与えていったはずです。

 もう一点、先ほど読みましたルカ福音書4章16節の記事で、イエスさまが故郷ナザレの会堂で安息日に会堂に入って聖書を朗読するのにイザヤ書のきょうのテキストを読まれたことに触れておきます。 ルカ4章は、イエスさまが40日の荒野の誘惑に勝利された記事で始まっていますが、ガリラヤで宣教を開始された中でこのことが起こっています。 当時、安息日には定められたモーセ五書のテキストを読んだ後、誰でもそれに対応すると思われる預言書の一箇所を読み、説教することができました。 イエスさまがイザヤの巻物を選んで読んだのは偶然ではなかったでしょう。 イエスさまはヘブル語で書かれた巻物を読まれたのですが、福音書を書いたルカは70人訳というギリシャ語に翻訳されたテキストを使っていますから、ヘブル語とギリシャ語の間に存在する内容解釈の相違という困難性がありますが、ルカの記述には、いまやイザヤ預言はイエス・キリストにおいて成就した、というルカのメッセージが込められています。

 とにかく第三イザヤにとって、捕囚解放後の荒廃した祖国をどう回復させるかは大問題でした。 そこに新しい民の在り方と新しい国の在り方を提示した第三イザヤの展望は、律法や神殿を超えて、福音と教会を生み出していったイエス・キリストの活動につながっていきます。 さて、きょうはもう第一アドヴェントです。 私たちも新しく神殿再建に向かって歩み始めた古代イスラエル人に遅れをとらないように、人の世に与えられる神さまの愛の結晶であるイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスに向けて、一つのシーズンを希望に溢れて歩み出してまいりましょう。 祈ります。


 
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