2014.8.24

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「祈りの家と強盗の巣」

秋葉 正二

イザヤ書56,1-8ルカによる福音書19,41-48

 宗教には神殿がつきものです。 日本の神社にも本殿と呼ばれる神殿がありますし、教派神道系の宗教教団にも必ず天神地祇を祭る神殿があります。 エジプトやメソポタミアなど、古代オリエントにおいてもこのことは共通です。 イスラエルでは士師記の時代、既に神殿があったことがサムエル記(上1-3章)や士師記(18,31)に出てきますし、分裂王国になってもべテルとかダンの神殿は国家聖所に格上げされていますから、国家にとって重要な位置を占めていたことが分かります。 とりわけソロモンの神殿はその規模の大きさからも有名です。 イエスさまの時代のエルサレム神殿はいわゆるヘロデ大王が建立したもので、これも壮大な規模を誇ります。 最終完成は紀元64年と言われていますから、70年にローマの大軍に徹底的に破壊されたことを思えば、何とも空しい気がします。 古代イスラエルにとって神殿は国家宗教の公的な神礼拝の場所ですから、レビ人や祭司など、そこに専門に仕える人々がいました。 そもそもイエスさまがエルサレムに上られた理由はそこに神殿があったためとも思われます。 祭りの時にはエルサレムの人口は何倍にもふくれ上がったと言われていますが、それはみな神殿に詣でる目的があったからです。 ですからエルサレム神殿は、エルサレムという城壁都市を象徴する本丸でもあったわけです。

 きょうのテキストでは、都エルサレムが見えた時、イエスさまはその都のために泣いてこう言われたと記されています。 『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……』 42節から44節です。 エルサレムという都に対して「お前」と、二人称で語られているのが印象的です。 イエスさまの公的活動の大半はガリラヤでしたけれども、メシアとして最終的な仕事を成し遂げる舞台として、エルサレムという都とその本丸であるエルサレム神殿が必要だったということでしょう。 しかし、イエスさま一向ははるばるやって来たものの、当のエルサレムはメシアの到来についても、イエスさまがこれからメシアとして成し遂げようとすることについても、余りにも無知であったので、思わず嘆きの言葉が口をついて出てしまわれたというのが、ここに記されていることです。 その内容は神殿崩壊の預言です。 ルカが福音書を書いた時点では既にエルサレム神殿は崩壊していましたので、これはいわゆる事後預言です。 それにしても、嘆きの言葉が崩壊預言であったというのは、穏やかではありません。 イエスさまがこの言葉を口にされた時、イスラエルの人間ならば当然、かつてエレミヤが神殿崩壊を目の当たりにして泣いたことを思い出したに違いありません。 神殿崩壊にはそれぞれ理由があります。 この場合、イエスさまはそれを、『神の訪れてくださる時をわきまえなかったから』 と指摘されています。 そこには神殿を中心にして栄える国家宗教と、純粋に神の子としての業を進めようとするキリストとしてのイエスさまとの決定的な意識のズレがあったと言わざるを得ません。

 こうした事柄を背景にして、とにかくイエスさまは神殿の境内に入られました。 45節以下です。 神殿の中では商売をしている人たちがいました。 「異邦人の庭」と呼ばれる神殿の外庭では両替商が商売をしていました。 マタイ、マルコ、ヨハネの並行記事には、犠牲の動物を売る商人たちがいたことが記されています。 神殿境内でそうした商売が行われている風景は、エルサレムの人たちにとっては当たり前のことだったのです。

 商売をする人の熱心さというのは大したもので、いつでもどんな場所でも、割り込める隙間があれば入り込んで行くものです。 この場合、その場所が神殿であったということであり、そこで行なわれた商売は既に慣習になっていたということです。 神殿両替商の仕事というのは、参詣に来た人々が、祭壇に捧げるお金を献金用の通貨に両替する際、その利ざやを稼ぐものです。 「出エジプト記」30章に由来が見出せますが、元々神殿税は古ヘブライの貨幣かツロの貨幣でしか支払えませんでした。 イエス時代でも日常生活で使う貨幣をそのまま献金に使うのはふさわしくないとされていましたから、各地からやって来るディアスポラのユダヤ人たちが持ち込むローマ貨幣なども、みな神殿献金用に両替する必要があったのです。 神殿に捧げる犠牲用の動物を売る商人たちがいたことにも触れましたが、鳩とか羊とか牛とかも売られていて、これらは生贄です。 商売が行われていた神殿の外庭は200メートル以上の幅があったそうですが、動物の鳴き声やら参詣人や商人たちで相当賑やかであったろうと想像できます。 イエスさまはそういう場所に入られたわけです。 そして商売をしていた人々を追い出し始められたのです。 ところで、ルカには描かれていないのですが、並行記事によればイエスさまは両替商の台や腰掛をひっくり返されています。 暴力的な行動ですから、「へー、イエスさまはこういうこともされるんだ!」 と初めてその箇所を読む方は驚くわけです。

 まァ、何にしても、こういう商売は神殿の認可の上で行われていたということです。 裏を返せば、神殿の祭司たちはこうした商売人から袖の下も含めて収益の一部を頂いていたということに他なりません。 45節には確かにイエスさまが商売をしていた人々を追い出し始めたとありますが、商売人全員を追い出したということではないでしょう。 一人で全員追い出すなんてことは不可能ですし、ましてやたくさんの牛や羊やヤギもいたわけですから。 それに、神殿にはちゃんとレビ人たちによって組織された神殿警備隊もいました。 何かゴタゴタが起きればこの警備隊が出動するわけですが、そうした記述もありませんから、暴力といってもひどく乱暴に滅茶苦茶をやったということではなかったのでしょう。 46節の『わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にした。』 というイエスさまの言葉はイザヤ書(56,7)エレミヤ書(7,11)からの引用です。

 エルサレム神殿はイエスさまの教えの場にもなっていたわけですが、あくまでもイエスさまにとって神殿は神さまへの祈りの場であったのです。 既に商売人が多数進出してしまっていたエルサレム神殿の現状をイエスさまはそのまま容認できなかったのです。 しかし、祭司やレビ人にしてみれば、そこは生活の場でもあったし、既に慣習という形で礼拝システムが出来上がっていたのですから、「そんなことやめろ」と言われても、すぐに「ハイ」とは言えなかったと思います。

 イエスさまの行動や指摘を彼らはそのまま受け入れるわけにはいかなかったのです。 ここに祭司たちとイエスさまの決定的な対立が生じた原因があります。 その溝はだんだん大きくなり、祭司たちはますますイエスさまを憎むようになり、殺そうというところにまで感情が高揚していくのです。 そこには既に十字架の影が映り始めていると言えるでしょう。 宗教的な信念と言いますか、信仰思想や信仰上の確信、あるいは教義と言ってもいいと思いますが、これはある面から見ればとても怖いものだと思います。 信じている世界に関することを否定されたり覆されたりすることは、信仰者本人にとってみると耐えられないほどの苦痛なのです。 私は九州教区で、統一協会に取り込まれてしまった若者たちの信じる世界を少しずつ砕いて壊すという、いわゆるマインド・コントロールを解くという救出活動をたくさんしてきましたが、その活動は、自分の信じた世界を壊されて行く彼らの苦痛を見なければならない作業でもありました。 人間は信じ込んでしまった事柄、慣習としてシステムとして出来上がっている世界を崩されることが一番苦痛なのです。 それは決してイエス時代の祭司たちに限ったことではありません。 現代の私たちにも当てはめて考えなければならないことだと思います。 信仰の絶対化の問題です。 皆さんはご自分の信仰をどのように捉えておられるでしょうか? その信仰は絶対でしょうか? 私は牧師ですが、自分の信仰を絶対とは考えていません。 私は自分の信仰を顧みようとする時、人間の有限性ということをいつも思い起こします。

 自分の信仰世界の事柄を「心から信じます」とは言えますが、そう信じている自分の在り方全体は相対的だと思っています。 信仰を相対化して信仰世界が成り立つのか、と言われてしまうかも知れませんが、私は自らの実存は決して普遍的な本質ではない、と考えています。 信仰生活というのは、自己の存在に主体的な関心を抱きつつ、常に自己を神さまの前に明らかにする作業を怠らない営みだと思っているからです。 神殿の祭司たちはそうしたことから考えると、自分の信仰を絶対化していたのではないかと思うのです。

 絶対化すれば、それに批判が加えられたり、それが覆されようとすれば徹底的にそれをもたらす力を抹殺しようとするでしょう。 イエスさまと祭司たちの対立の図式は、そういうところにあったのではないでしょうか。 祭司は宗教上のプロフェッショナルです。 プロとしてのプライドが高い分だけ、自分の生きる世界が批判されることは許せないのです。 『強盗の巣にした』と言われてしまったのですから、「こんな奴は許せん」と思ったでしょう。 民衆は知識もプライドも祭司たちに比べればはるかに低いわけですから、イエスさまの話に余計な条件など付けずに耳を傾けることができます。 イエスさまのお話は信仰の本質をズバズバついて興味しろかったのです。 だから彼らは皆、夢中になって聞き入りました。 神殿を舞台にしたこの記事は、これ以上ハッキリ映すことはできないという程、祭司たちとイエスさまの立ち位置の相違をコントラストを効かせて描いているのではないでしょうか。 私たちはイエスさまの『わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。』 というお言葉を自分に向けられたものとして受け留めたいと思います。

 「強盗の巣」なんて言われるとドキッとしてしまいます。 パウロの言うように、教会内にセクトをつくって争ったり、気に食わない人を平気で排除したりすることが「強盗の巣」にしていることなのかなァ、などといろいろ思わされます。  そういうふうに教会の一員である自分に関わることとしてイエスさまのお言葉に向き合えたら、それは意味あることです。 教会はやっぱり基本的には神さまの前に共にひざまずいて祈る場所なのだと思います。 今年のカンファレンスのテーマは「礼拝」ですが、この教会でなされる中心の業である礼拝について、いろいろな角度から皆さんと一緒に考えてみたいと願っています。

 考えるキッカケみたいなことを今年度の基本方針の説明部分に記してありますので、どうぞそれを皆さん流に料理してみてください。 学ぶことがたくさんある、と確信しています。


 
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