イエス様はいわゆる最後の晩餐の席で幾つかの意味深い言動を残されました。弟子たちの足を洗われたり、ユダやペテロの裏切りを指摘されたかと思うと、一方では弟子たちには別れるに際しての約束と教えを残されています。きょうのテキストは、この時の二番目の決別説教と呼ばれる箇所です。実は、この箇所は聖書学的に前後の配置をめぐっていろいろな解釈が生じる難しい箇所です。あまりそうした解釈に振り回されていても、私たちにはあまり得ることもないと思いますので、ここではイエス様の話の内容に集中することにします。
この箇所は、いわゆる「ぶどうの木の譬え」と呼ばれる所です。イエス様は 『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である』 と言われた上で、『わたしにつながっていなさい』 と語られたのですから、何が何に譬えられているかは明白です。即ち、神様が農夫で、農夫が育てるぶどうの木がイエス様で、そこにつながる枝が弟子たちということになります。ヨハネは編集に際して、この弟子たちに自分や自分の属する教会を重ねて考えていたかも知れません。ですから、私たちもこの弟子たちに自分を重ねてみることも可能だと思います。
さて、あらためて説明することもないのですが、ぶどうはパレスチナの有力農産物の一つです。とりわけぶどう酒ができるということで、イスラエルの人たちにとっては重要物産です。大麦や小麦ほどではなかったにしても、オリーブなどと並んで、ぶどうが人々の生活上大きな位置を占めていたことは疑いありません。ところで、創世記にはノアの話があることをご存じだと思います。あの「ノアの箱舟」のノアです。ヤーウェ資料と呼ばれる最も古い原資料に基づく記事ですが、そこではノアがぶどう酒を飲み過ぎて酔っぱらった話が出ていますから、相当古くからぶどう酒が生活に関わっていたことが分かります。ですからイスラエルの人たちにとってぶどうの木は、日常生活上の身近な植物です。このぶどうの木をイエス様は譬えに用いられたわけで、ご自分の主張をできるだけ多くの人に分かり易く語るという意図があったと思われます。
ここには 「まことのぶどうの木」 という表現がありますので、当然 「まことでないぶどうの木」 が意識されています。それはぶどうの木に似た偽の植物という意味にもとれますが、おそらくそうではなくて、同じ種類のぶどうの木と言っても、手入れ次第で素晴らしい実を結ぶものもあれば、酸っぱくて役に立たない実を結ぶ木もありますよ、という意味です。ぶどうの実からぶどう酒をつくりますが、甘くてよい味の実からでないとぶどう酒はおいしくありません。
砧教会時代、兄弟姉妹教会の牛久教会と年に一回講壇交換をしていたのですが、ある年の礼拝後、牛久教会の役員さんが牛久にあるワイナリーの記念館に連れて行ってくださいました。聞けば日本で初めて本格的なワイナリーが出来たのが牛久なのだそうです。ワイナリーの跡が記念館になっていまして、当時の工場が再現されていたり、ワインを出すレストランが併設されていたりと、まあ、大人向けのレジャー施設といったところです。パンフレットを見ながらいろいろな説明を伺ったのですが、ぶどうの実の良し悪しはその木の手入れ次第だという説明がありました。土を耕すとか、余分な枝を切り落とすとか、よい肥料を与えるとか、そうした手間を十分にかけるとおいしい実を結ぶという話でした。
イエス様が 『わたしはまことのぶどうの木』 とおっしゃった時、その言葉の裏には、「神様がいろいろ心配してくださって、十分な手入れがなされているよ、だからおいしい実がなるよ」という意味が含まれているのだと思います。しかもイエス様は「ぶどう園」や「ぶどうの木」が、旧約聖書の時代から、イザヤやエゼキエルといった預言者、あるいは詩編の詩人によってイスラエルの譬えとして用いられてきたことを承知されていました(イザヤ5,1-7、エゼキエル19,10-14、詩80,8 ほか)。
旧約聖書を自由に的確に引用されたイエス様のことですから、旧約聖書のぶどうに関わる譬えをご存じなかったはずはありません。そこで、先ほどちょっと触れましたが、イエス様の譬えの裏側のことを少し考えてみたいと思うのです。つまり、イエス様が 「まことのぶどうの木」 とおっしゃる裏で 「まことでないぶどうの木」 をどのようにイメージされたかという問題です。まァ、全体的にぶどうの木はプラスイメージで引用される場合が多いわけですし、「良い実を結ぶ」 と聞けば私たちは祝福を連想します。しかし、イエス様の譬えには、ある意味容易ならざる内容が含まれていたことに気づかされます。どういうことかと言いますと、あるぶどうの木がよい実を結ばなかったり、酸っぱかったりすれば、その枝は切り取られてしまうということです。旧約にもそういう言い方がはっきり出てきます。よい実を結ばないというのは、おそらくイスラエルの罪を指摘する表現でしょう。だとすると、枝が切り落とされるというのは、イスラエルに対する裁きの告知です。きっとイエス様はそうしたイスラエルの罪ある歴史のことも踏まえて、テキストの譬えを語られたのではないかと思います。つまり、イスラエルの昔と今の両方の姿を見つめながら、譬え話を語られたと思うのです。ですからイエス様が 『わたしにつながっていなさい』 と言われた言葉は決して軽い物言いではありません。
「つながっていなさい」 というのはメノーという動詞の命令形ですが、この「つながる」という動詞はヨハネ福音書では何度も使われている重要語です。辞書によれと 「留まる、宿る、そのままの状態が保たれる」とあります。イエス様がこの言葉を使われる時、そこには 「このわたしに動かされずにしっかり留まっていなさい」 という御心が示されています。もっと言えば、ここには信仰の秘儀が関わっているのです。キリストがまことのぶどうの木であって、私たちと関わり、私たちをその枝として生かしてくださる……、しかもそれを私たちがただ受動的に命じられるのではなく、私たち一人ひとりが決断をもって受け止め、信仰においてまちがいなくキリストに繋がるように、と勧めてくださっているのです。
弟子たちがそうであったように、私たちも自分自身の意思と行動によって主イエス・キリストのうちに留まらなければなりません。実際のぶどうの木では、枝は幹に勝手に背いたり離れたりはできません。しかし、人間はいつでもイエス様に背くことができますし、その交わりさえ破ることもできます。でもそうなれば、その人は命と力の源を失ってしまうのです。ですから、私たちがかつての弟子たちのように、時には覚束ない足取りになったとしても、何とか信仰さえ失わずに、イエス様のうちに留まることが出来るなら、私たちは結果として、神奉仕において実り豊かな生活を営むことができますよ、とイエス様は譬えを通して声をかけてくださっていると思うのです。
そうしたことを確認した上で7節に注目して頂きたいと思います。ここには、イエス様に結ばれた人間の生涯に対して約束された祝福として、祈りに対する神様の約束が示されています。求めるものは何でも叶えられるというのです。しかしそこには二つの条件がちゃんと添えられています。一つは先ほども触れたように、イエス様のうちにつながっていること、留まることです。もう一つは、イエス様ご自身の言と教えが私たちのうちに留まることです。もっと具体的に言うならば、私たちの思想なり目的なり祈りが、イエス様への献身とその教えに対する忠誠とによって形作られるということでしょう。
さあ、私たちはどれくらいこの愛と信頼に満ちた 『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である』 というお言葉を受け留められるでしょうか。主イエス・キリストによって生かされ、守られ、育まれることに感謝と畏敬をもって向き合う時、私たちは “主よ、私はあなたを離れません” という強い信仰の決意へと導かれるはずです。バチカンの礼拝堂もそうだったと記憶していますが、ヨーロッパの教会の門扉などにはよくぶどうの木の図柄が描かれています。ステンドグラスにもぶどうの木の図柄をたくさん見ました。ああいうのはとてもいいな、と思いました。礼拝に臨む度に、イエス様のぶどうの木の話を思い出させてくれます。それはイエス様に繋がっている私たちの信仰の確信を新たに呼び起こしてくれます。この一回りもイエス様に繋がっている恵みに感謝して歩んでまいりましょう。