I
今日は平和聖日です。バビロンに捕囚の民となった民族同胞に向かって、預言者エレミヤが次のように語りかけたと伝えられています。
あなたたちが私を呼び、
来て私に祈り求めるなら、私は聞く。
私を尋ね求めるならば、私に出会うであろう。(エレミヤ29,12)
このときイスラエル民族は、およそ平和とはかけ離れた状態にありました。その同胞に向かって預言者は、異郷の地で「平和」に生きることを勧めます。家を建てる、果樹を植える、妻をめとり家庭を築く、人口を増やす、捕囚となっている町のために祈るなどです。「その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(29,7)。
また預言者は、「将来と希望を与える」という「平和の計画」についても語ります。「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(29,10)。――70年の時が満ちたらとは、しかし、およそ三世代後になって初めて、つまり孫の時代になってという意味でしょう。捕囚を経験した第一世代が生きて再び故郷を見ることはない、と考えられているように感じます。
同時に預言者は、「あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされるな」と警告します(29,8)。おそらく、捕囚民に向かって〈じきにこの不幸な時代は終わる〉といった根拠のない楽観論を喧伝する人々、つまり本当は「平和」と呼ばれるに値しないものを「平和」と名付けて吹聴するオピニオンリーダーがいたようです。エレミヤは、そのような幻想に耳を貸すなと警告しています。
私たちの国は、第二次世界大戦での敗戦後67年、つまりもうすぐ70年を迎えます。この国は、本当に「平和」な国になったでしょうか? それとも私たちは、〈バビロンに70年の時が満ちた〉ときに初めて、神の約束に従って初めて本当の故郷に帰ってゆくのでしょうか?
II
先ほど新約聖書から朗読したマルコ福音書の箇所は、受難に向かってエルサレムへの旅を始める直前、イエスがガリラヤで人々に向かって教えたとされる言葉の最後の部分です。イエスはまず言います。
私を信じるこれら小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(42節)
神を信じて慎ましく、ただ平和に生きている小さな人々を躓かせる――私たちの社会にも、そうしたことはあります。
戦後の日本は、やがて「高度経済成長」という繁栄期を経験します。この時期、工業の増産を最優先するあまり、たくさんの公害事件が発生しました。例えば食用油に製造過程で有害物質であるPCBが混入し、これを摂取した人々に健康被害が出ました(カネミ油症)。化学工場から水銀が海に垂れ流しにされ、その海でとれた魚を食べた猫たちが狂い死にし、やがて人間にも重大な健康被害が発生しました(水俣病)。あるいは石油コンビナートから大気中に放出された有害物質が呼吸器系の健康被害を引き起こしました(四日市ぜんそく)。また近年、肺を傷つける物質が建材として生産されてきたのみならず、その製造工場で働いてきた人々や、その周辺で暮らしてきた人々に、深刻な健康被害が出ていることが判明しました(アスベスト被害)。これらの被害は、まだ終わっていません。
あるいは、そもそも平和憲法をもっている国に巨大な外国軍の基地が、しかも沖縄に集中的に配置されており、隣国のミサイル攻撃の可能性を理由に最新兵器を配備してみたり、安全性が疑問視されている飛行機を導入してみたりということが、しばしばその地域に住んでいる人々の意向に反して行われます。
また核廃棄物の処理方法が確立されていないのみならず、福島第一原発の事故原因の究明すら十分に行われていないにもかかわらず、高濃度汚染地域での健康被害には底知れぬものがあるというのに、少なからぬ人々の気持ちに反して、産業界の圧力を受けて原発は再稼働されました。
――これらすべては人災です。これが創造者の善意を信じ、この世界が当たり前に生きてゆける場所であると信じて、子どもたちを産み、ふつうに育てている人々を「躓かせる」ことでなくて、いったい何でしょうか。世界に対する基本的な信頼を、こんなかたちで傷つけることが許されてよいのか。そんなことをするくらいなら、〈石臼を首に巻かれて、ガリラヤ湖に放り込まれた方がずっとましだ〉とイエスは言っているのだと思います。
いったい私たちに、戦後「70年」を経て、バビロンを脱出するチャンスはあるでしょうか?
III
イエスは、もう一つの恐ろしい可能性について警告します。それは他人ではなく、今度は自分で自分を躓かせるという危険性です。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。*地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。(43-44節)
同じことが「片方の足」「片方の目」についても言われます。もし体の一部分の切除を要求するこのイエスの言葉が文字通り実践されていたら、教会の礼拝堂は松葉杖や車椅子で溢れかえり、障がい者保険はパンクしていたかもしれませんね。なるほど古代の宗教には、身体を傷つけたり、四肢の一部を切除したりした事例があります。しかし例えば〈肉体〉を犠牲にすることで〈霊〉の完成を目指すといったことが、ここで言われているとは思えません。
それよりも注目されるのは、次のことです。古代イスラエルでは、いわゆる五体満足であることが極めて重視されました。身体の障がいをもつ者は、たとえ成人男性であっても、共同体のフルメンバーとしては受け入れられませんでした。それがここでは、かりに五体不満足であっても、それで「神の国」「命」に入ってゆくのであれば、その方が決定的にましであると言われています。
以前、視覚障がいをもつキリスト者の方々の合宿に参加したことがあります。その会の指導者で、ご自身も視覚障がいをお持ちの牧師先生が言われた言葉を忘れることができません。彼はおよそこう言いました、「福音書にはあきれるほど大勢の障がい者が登場しますね。イエスは次から次へと彼らを癒して歩く。それなのに、教会にそうした障がい者がほとんど見当たらないのは、いったいどうした訳なのでしょう?」――その意味で、礼拝堂に松葉杖や車椅子が見られないのは、たしかに尋常でありません。本当に私たちは「命」の中に入ってゆけるのでしょうか?
IV
イエスが言う〈自分を躓かせる〉とは、どういうことでしょうか?
山上の説教でイエスが「求めよ/探せ/門を叩け」と勧めていることが手がかりになるかもしれません(マタイ5,7以下参照)。「求めよ」とは、君が本当に必要とするものがあるなら、他人から奪いとるのでなく「下さい!」と言ってもらいなさい。「探せ」とは、偽物や代替物で一時的な満足を得るのではなく、真実を探し続けなさい。そして「門を叩け」とは、欲望を誘って誘導するなどして他人の心を軽んじないで、真正面からその良心に訴えなさいという意味です。――つまり自分を欺くとは、求めず・探さず・門を叩かない生き方です。
「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」という発言は、写本によっては44節、46節そして48節の都合3度、つまり「片手」「片足」「片目」についての言葉の後にそのつど付記されています。この発言はおそらく、滅びに定められた者にとって、死後の苦しみが永続的であることを表現しています(イザヤ書66,24 LXX参照)。神の国(命)に入ることを、「地獄」の悲惨さで動機づけることには疑問を感じます。それでも、生きているこの世界こそが「地獄」であると感じている人がいるなら、そのような人にとっては、たとえ身体の一部を切り離したとしても、「神の国」に入りたいと願うことに何ら不思議はないでしょう。
V
最後にイエスはこう言います。
人は皆、火で塩味をつけられる。(49節)
正確な意味は不明です。しかしイエス伝承で「火」とは、しばしば洗礼者ヨハネが用いた審判のイメージです。他方で「塩」は、この世界に対する有用性のシンボルでしょう。ならばこの言葉は、〈ある人がこの世界にどれほど貢献したかは、最後の審判において初めて明らかにされる〉という意味を踏まえつつ、〈人は最後の審判を自らに先取りすることで、自分がこの世界に何を貢献できるかが分かるようになる〉という意味に理解できます。
最後の審判を先取りするとは、自分が神の怒りの前に滅びるべき罪人であり、それゆえ神の無条件の恵みに基づいてのみ生きることができると自覚することです。そのとき初めて私たちは、高慢さや幻想なしに、自分や世界を見ることができるようになります。「塩」は、「平和」をもたらす生き方の基盤です。
かつてユダヤ民族は、神に選ばれた民であるという宗教的特権を、異民族に対する自民族の優越性と理解して、異邦人に対してはエルサレム神殿への立ち入りを厳格に制限していました。他方、やがて世界中の諸民族がヤハウェ神を崇拝するために神殿を訪れるだろうという預言者の夢を、イエスもまた共有していました(例えばイザヤ2,1-5をマタイ8,11と比較)。パウロもまた、異邦人キリスト者に対してエルサレム神殿を開放するよう、エルサレム教会に働きかけた形跡があるとする意見があります。それでもユダヤ民族は、その神を自民族だけにアプローチ可能な存在として独占し、やがてその唯一神が支配する「聖地」から異教徒を追い払おうとして、最終的にはローマ帝国との軍事衝突(第一次ユダヤ戦争)に突入しました。結果、紀元後70年に神殿は焼け落ち、イエスの神殿崩壊預言は死後40年して成就したのです。――イエスの民族は、「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(50節)というナザレ人の言葉を、最終的には聞きませんでした。
私たちはどうしましょうか? キリスト教会という〈新しい神殿〉は、どのような自己形成を行うべきでしょうか? そもそも誰のために、教会は存在しているのでしょうか? いろいろな答えがあるでしょう。しかし将来性がある一つの方向性として、「他者のため」つまり世界にとっての「塩」になるためにこそ、教会は存在していると考えることができます。同じ社会でいっしょに生きている人を躓かせたり、自分を欺いたりするのを止め、心の中に「塩」をもつことで、罪を赦されて互いに平和に生きる道をごいっしょに歩みたいと思います。