今日の箇所は「大宴会のたとえ」だ。大宴会といえば、例えば宮中の豊明殿で開かれる国賓の歓迎宴のように大規模なものを連想する。シャンデリアが煌めき音楽が奏でられる大広間に、タキシードなどの正装に威儀を正した政財界の大物たちが居流れ、かしこまった仕草で最高級のワインを飲み、一流のシェフが用意したフランス料理を食べる。時々、型にはまった挨拶があり、その度に「乾杯!」と言い交わす。
それほど豪華でなくても、「盛大な宴会」(16節)という以上は、目の前に「山海の珍味」が並ぶのが普通だと思う人もいるだろう。だが、今日のテキストに出て来る「大宴会」は、それよりも少しグレードが低いようだ。本田哲郎神父は、「食事会」と訳している。せいぜいその程度ではないか。ただ、皆で遠慮なく楽しむためには、それだけの食べ物や飲み物は十分用意されていなければならない。このような、贅沢ではなくても楽しい食事会は、聖書ではしばしば「神の国」の象徴であった。今日の箇所でも、イエスと共に食事をしていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(15節)と言っているが、これはそのことを示唆している。
そこで、先ず「神の国の食事」について述べておきたい。
この世界では争いや戦争、あるいは災害や疫病など、さまざまな苦しみが後を絶たない。しかし、やがて時が来ると、神は必ずご自分の支配、つまり「神の国」をこの世界に打ち立てられる。苦しみや悲しみはなくなり、すべての涙が拭われて、本当の平和、つまり「シャローム」が実現する。「シャローム」とは、単に「戦争が終わる」というだけのことではない。家族と一緒に安心して眠れる家があり、贅沢でなくてもいいから着る物や食べる物が必要なだけあり、社会的・精神的に平安な状態のことだ。神は、この「シャローム」を約束される。「神の国の食事」とは、その象徴である。
紀元前第8世紀の預言者イザヤは、東の超大国アッシリヤと西の超大国エジプトの間で不安に怯えていたイスラエルに対して、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ書7章4節)と励まし、やがて必ず「シャローム」が実現すると預言した。そして、「神がシオンの山で開かれる祝宴」のイメージを用いてこの約束を語った。先ほど朗読したイザヤ書25章6-8節の言葉がそれである。
「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」。
「脂肪に富む良い肉」(松坂牛の霜降りの部分?)とか、「えり抜きの酒」(ヴィンテージもののワイン)とあるが、献立はそれほど重要ではない。肝心なことは、神が「すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼす」、つまり、先が見えない行き詰まりを打開して下さるということであり、「死」と絶望に打ち勝ち給うという「シャローム」の約束である。こうして、すべての不安が拭い去られ、真の平安のうちに家族や友人たちと一緒に座って食事をするのである。
キング牧師が、「兄弟愛の食卓」と言ったのも同じことだ。「私には夢がある。・・・いつの日か、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫たちが共に兄弟愛の食卓に座る日が来るであろう」。神は、この夢の実現を約束される。
さて、今日のテキストに戻ろう。
イエスの譬えでは、「大勢の人」(16節)がこの食事会に招かれたという。ところが、「皆、次々に断った」(18節)。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」という理由で、次の人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」(19節)と言って断った。別の人は「妻を迎えたばかりなので・・・」(20節)という口実で、招きに応じようとしなかった。
畑を買う。牛を一度に十頭も買い入れる。妻を迎える。こういうことが可能だったところを見ると、この人たちはお金持ちであった。社会的・精神的に一番安定した暮らしができた人々と言ってもいい。ところが、誰よりも先にこの食事会に招かれていた彼らが自分からその招待を断った、というのである。だから、本田神父はこの箇所に、「金持ちは、神の国に入るのを、自分から断っている」という見出しをつけた。
それと対照的に、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(21節)が客として迎えられた。これは、端的に言えば、「イエスは常にこういう人たちに共感しておられた」ということではないだろうか。その点で、宣教を始めた当初、イエスが生まれ故郷ナザレの会堂で人々の目の前に示された行動は象徴的だ。彼はその時、聖書の巻物を開いて朗読しようとしたのだが、他のどこでもなく、イザヤ書61章1-2節の言葉に目を留めたというのである(ルカ4章18節)。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
ここに自らの使命がある、とイエスは信じておられたのだ。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6章20-21節)という言葉も、ここから理解されねばならない。
私たちも、常にこのイエスに目を留めて生きるべきではないだろうか。