2009.6.7

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「思いのままに」

廣石 望

ヨエル書2,21-27; ヨハネ福音書3,1-8

I

私たちを本当に生かすものは何でしょうか? ユダヤ・キリスト教の伝統では、それが「神の霊」「聖霊」と呼ばれます。「本当に生かす」とは、死をくぐり抜けて生を生み出すこと、関係が切れてしまったところに新しい関係を呼び覚ますことです。「憎しみのあるところには愛を /諍いのあるところには許しを/分裂のあるところには一致を/疑いのあるところに信仰を・・・もたらす者としてください」と祈る、私たちに親しいフランチェスコの祈りも同様です。先週、私たちは聖霊降臨祭を祝いましたが、このことについて伝える使徒言行録の記事も(使2章)、同じような意味を含んでいます。キリストの福音が、民族や言語の境を超えて伝達され、人々が互いに心から言葉が通じるようになったというのですから。今日のために選ばれたヨハネ福音書のニコデモ物語も、そのようなつながりの中にあります。

II

場面はエルサレムです。ヨハネ福音書のイエスは都合3回上京しますが、今日のテキストはその1回目に含まれます。この第一回上京にさいしてイエスは、他の福音諸では、イエス捕縛の引きがねになった事件である「宮清め」を早くも実行します。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の替えをまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた、『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の言えとしてはならない』」(ヨハネ2,15-16)――どうやらイエスは、神殿での動物供犠のルーティンを、妨害行為によって一時的にであれストップさせたようですね。

そのイエスのもとに、「ファリサイ派議員」のニコデモが、「夜」に人目を避けて、こっそり訪ねてくるというのが、私たちのテキストの始まりです。「議員」とはエルサレム最高法院の構成員のことですので、ニコデモは神殿体制を維持運営する立場にある最高責任者の一人です。そのような人物が、先日神殿で大暴れしたばかりのガリラヤ人に会いにきました。もしかしたらイエスの真意を探りに来たのかもしれません。それにしても大胆な行為だと思います。

しかしテキストをよく読んでみると、場面の全体は、キリスト教会の「洗礼」儀礼を下敷きにして、「上から生まれる」というキリスト者の自覚をとりあつかっています。「肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である」(6節)という発言が、その自覚の強烈さを示唆しているようです。ニコデモの姿は、ヨハネ福音書が書かれた時期のユダヤ教指導層――これは実態としてファリサイ派の発展形態でした――の姿と重ね合わされているようです。この指導層と、福音書を生み出したキリスト教共同体は、緊張関係にありました。福音書記者の関心は、一人のファリサイ派指導者がイエスに教えを乞うたという状況を設定することにあったのかもしれません。

III

そのニコデモに向かって、イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言います(3節)。ニコデモは問い返します、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。――これは、ヨハネ福音書に特徴的なイエスの対話の中で、対話相手がしばしば犯す物質主義的な誤解の一例です。つまり歴史的な報告というよりも、むしろ、イエスをどう理解してはならないかを読者に明示するための文学的な手法です。新共同訳で「新たに生まれる」とあるのは、原文を直訳すると「上から生まれる」です。つまりニコデモは、「上から生まれなければ」というイエスの言葉を、「二度目に」母の胎に入らなければという意味におきかえて誤解した、と福音書は描いているようです。この意図的に設定されたズレは、新共同訳のように「新たに生まれる」と訳した場合、ややなだらかにされてしまうように感じます。

「上から生まれる」とは何を意味するかを説明するかのように、イエスは言葉を続けます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)――ここに出る「水と霊」という表現が洗礼を示唆しています。つまりイエスの発言は、〈誰でも洗礼を受けなければ、神の国に入ることはできない〉と言っているわけです。

もともと洗礼は、洗礼者ヨハネが、おそらくはユダヤ教の沐浴儀礼を大改革するかたちで創設した、終末論的な象徴行為です。迫りくる神の怒りの審判を目前に控えて、一度だけ「水」に沈められることで〈溺死〉ないし〈死滅〉し、それによって罪を赦されて、神との関係が回復されることを期待するという象徴行為でした。後に原始キリスト教は、この象徴行為を、共同体への入会儀礼として採用しました。先にふれた使徒言行録にあるペンテコステ物語にも定着した聖霊体験に基づいて、この儀礼を、天上に挙げられて「主」となったイエスの霊を注ぎかけられ、自らも「神の子ら」になるという意味に理解したのです。

ヨハネ福音書も、こうした経緯をおよそ知っていることは、以下のような言葉が洗礼者ヨハネの口に置かれていることからもわかります。

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1,31-34

ですから聖霊による洗礼を受けるとは、イエスの御名を信じることと同じことです。だから福音書の序文に、こうあります。

「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1,12-13

すると、今日のテキストで「上から生まれる」とあるのは、「神によって生まれる」(原文は「神から生まれる」)の言い換えです。そして、その内容は信仰者が「神の子ら」になること、つまり何者によっても奪い去られることのない尊厳を与えられることであると思います。

IV

そのように「上から」つまり「神から」生まれた者は、「霊」から生まれた者でもあると私たちのテキストは言います。すなわち「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)――ここには言葉遊びがあります。日本語で「風」と「霊」に訳し分けられた言葉は、ギリシア語ではどちらも同じ「プネウマ」という言葉だからです。「吹く」もその動詞形です。あえて直訳すれば、こんな感じです。「風は、それが欲するところで風する。そして君はその声を聞くが、それがどこから来て、どこに行くかを知らない。風から生まれた者はすべてこのようである。」

この言葉は、もちろんキリスト者が自由な存在であること、否、およそ人間は本来的に神の前で自由な存在であることを、自然現象とのつながりの中で述べています。風についての言及は、たんなる比喩とは思われません。気象衛星や気圧配置図を知らない古代人は、風が吹くことは世界が生きていること、そこに神の命が作用していることのしるしと受け止めていたと思います。

新約学者で宗教哲学者でもある八木誠一氏は、最近の書物でこう述べておられます(以下、八木誠一『イエスの宗教』岩波書店、2009年、44-45頁より)。

「愛は――それが現実化したときにわかるのだが――人間の本性であり、人性の自然である。ただしこの〈本性〉は、人間を超えた根拠をもっている。それを〈知る〉(自覚する)ことが、〈神を知る〉ことにほかならない」。

そして浄土教の「自然法爾(じねんほうに)」という概念について、次のような親鸞の言葉が引用されます。

「自然(じねん)といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾(ほうに)といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへにしからしむを法爾といふなり。」(親鸞『末灯紗』第五通)

自然法爾とは「阿弥陀如来の願力(はたらき)によって自然にそうなる」「人間を超えたはたらきがそうさせるから自然にそうなる」ということ、また念仏は、如来のはたらきと信仰者の信心が、その作用において一つになることなのだそうです。

私たちの暮す東アジアの文化も、ヨハネ福音書が「風から生まれた者」と表現するものによく似た宗教的次元を知っているのだと思います。

V

最初に、私たちを本当に生かすものは何か、と問いました。それは私たちが神の働きに重ね合わせられることで、他者や自然を好きなように操作しようとする欲望を棄てて――親鸞の言葉では「行者のはからひにあらず」――、私たちを通して神の働きが自ずと輝き出るようになること――親鸞のいう「如来の御ちかひなるがゆへにしからしむ」――なのではないでしょうか。

洗礼を受けるとは「すべて神さまにお任せする」ことだと言われて、私たちが深く納得するもの、私たちの文化に、こうした宗教伝統があるからなのかもしれません。こうした理解がけっしてこじつけでないことは、すでに旧約聖書の預言者が「水」と「霊」というモチーフを用いて次のように述べていることからも分かります。

「私が清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。私はお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、私の霊をお前たちの中に置き、私の掟に従って歩ませ、私の裁きを守り行わせる。」(エゼキエル36,25-27

預言者が「水」によって「すべての汚れとすべての偶像から清める」とあるのは、私たちの自分勝手な欲望や理想から解放されることに(親鸞のいう「行者のはからひにあらず」)、また「私の霊をお前たちの中に置き、私の掟に従って歩ませ、私の裁きを守り行わせる」とは、神と信仰者がその働きにおいて一つになることに(親鸞のいう「如来の御ちかひなるがゆへにしからしむ」)それぞれ通じています。

こうして、私たちを本当に生かすものは何かという問いは、「風(霊)が思いのままに吹く」ようにという祈りに、つまり〈主の祈り〉にある「御心の天になるごとく、地にもなせたまえ」という祈りに、私たちを導いてゆくのだと思います。



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