先週の教会総会では、皆さんが思っていることを率直に述べて下さり、良い話し合いができたことを感謝している。しかし、熱心な議論に耳を傾けながら、私は皆さんの心の中に何かが釈然としないまま「引っかかって」いるように感じていた。それは「教会と政治」の問題である。私は、この教会の牧師として、この問題を正面から取り上げて、考え方の道筋を明らかにするように努力しなければならないと思った。
ただ、今日の説教テキストとして私自身が選んだのは、ヨハネ福音書10章1-16節である。この中に「教会と政治」の問題に関するヒントを見つけようとしても、やや無理がある。全く不可能というわけではないが、「こじつけ」になる危険もある。ところが、ヨハネ10章と密接な関係があるエゼキエル書34章を読んでいるうちに、「教会と政治」の問題を考えるためには、むしろこちらの方に参考になる点が多いことに気がついた。そこで、今日はテキストをエゼキエル書に変更して話すことにしたい。
エゼキエルは、紀元前6世紀の預言者である。それは、世界的な危機の時代であった。北王国イスラエルは既にB.C.722年にアッシリヤによって滅ぼされており、エゼキエルが暮らしていた南王国ユダも歴史の大きな流れには逆らえず、B.C.587年にバビロニアのネブカドネツアル王の攻撃によって滅亡する。その上、ヨヤキン王やその側近など、大勢のユダヤ人はバビロンに強制連行され、故国から1000km以上も離れた異郷(今日のイラク)で不自由な暮らしを強いられた。いわゆる「バビロン捕囚」である。そして、その捕囚の民の中にエゼキエルもいたのである。
エゼキエル書1章1節によると、彼は捕囚民と一緒にバビロンに到着してから5年目に、ケバル川のほとりで神の召しを受け、預言者としての活動を始めた。苦労を共にして既に5年、エゼキエルには同胞の苦しみがよく分かっていたから、預言者としての彼の第一の使命は、彼らを慰め・励ますことであった。だが、彼は自分の思いつきで人々を慰めたのではない。今日のテキストの冒頭に、「主の言葉がわたしに臨んだ」(34章1節)とあるように、「神の言葉」を語ることによってそうしたのである。「預言者」とは、「神の言葉」を「預かって」、それを人々に伝える人のことである。
さて、エゼキエルが神から「預かった」のは、同胞である捕囚民を慰め・励ます言葉だけではなかった。個人的に慰めるだけでは、預言者の使命を十分に果たしたとは言えない。預言者の言葉は社会的な広がりを持つべきである。神はエゼキエルに、「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい」(2節) と命じられたというが、それにはそういう意味がある。
古代中近東では、「牧者」とは「支配者」のことであった。ここでは、具体的に南王国ユダの末期の王たちを指す。絶対的な権力をもって悪い支配を行う王に対して、預言者は言うべきことを言わなければならない、と神は求められたのである。それが「政治」の問題だからといって、そこから身を引くことは許されない。この「預言者的使命」は、現代の教会にも当てはまるであろう。
エゼキエルは、直ちにこの神の求めに応じた。そして、王たちの不正を厳しく糾弾する。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(3-4節)。
実際、南王国ユダの末期の王たちは、強権的で邪悪な支配を行ったことで知られている。『列王記下』の終わりの方には、どの王についても、「彼は先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」という記述がある。このような政治を正さないでおくと、民は救われない。一人ひとりの同胞に対して預言者がどんなに心を込めて慰めを語っても、権力者が我が物顔に牛耳る腐敗した政治が続く限り、「彼ら(国民)は飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」(5-6節)といった有様になってしまう。こういう場合には、預言者は「政治」に関しても発言せよ。これが神の意志なのである。
だから、エゼキエルは、不正な政治に対しては神ご自身が立ち向かうと告げる。「主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる」(10節)。そして、神ご自身が社会的弱者を助ける「良い羊飼い」になって下さると言う。「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(11節)、また、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16節)。
だが、預言者が批判したのは権力者による邪悪な支配だけでない。民の中の強い者が弱者に対して行う不正も批判の対象であった。「わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは小さいことだろうか」(17-18節)。これは、最近「市場経済中心主義」の下で起こっている「格差」を思い起こさせる。エゼキエルはこのような「不公平」も見逃さなかったのだ。
以上、預言者について言われたことは、ことごとく教会についても当てはまるのではないか。時代状況が違うから単純に同じとは言えないが、この混迷の時代にあって、教会には「地の塩・世の光」としての使命、あるいは「見張りの使命」(戦争責任告白)、要するに「預言者的使命」が与えられていることを忘れてはならない。