2007・8・19

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「私の記念として」

廣石 望

エゼキエル書34,20-28; コリントの信徒への手紙一11,17-26

I

 二つの文化が、対等でない仕方で出会うことがあります。一方の文化が政治・経済・軍事・技術などあらゆる点で、もう一つの文化に対して圧倒的な優位に立っている場合です。そのとき劣位に置かれた文化と社会の中から、ときおりカリスマ的な預言者が登場します。そして社会の現状に異議を唱え、富と権力および教育の新しい再分配を訴えて、民衆の支持を集めます。これに対して支配する側の文化に属する人々は、しばしばカリスマ的な指導者を逮捕するなどの行動に出ます。ところが民衆は、権力に抵抗したヒーローをますます支持するに至り、やがてはそうした指導者は死んだ後も生きているという伝説まで生まれてゆく――こうした事例が世界中にあります。

 こうした現象は、とりわけ西欧列強によって植民地にされた地域でしばしば生じており、宗教社会学で「千年王国運動」という名称で総称されます。イエスの運動と原始キリスト教もまた、古代の地中海世界において、ヘレニズム・ローマ文化の圧力がパレスティナの現地文化であるユダヤ文化に対して強烈な圧力をかけていた時期に、愛と和解のメッセージをかかげて成立したものでした。

 今日は、パウロが伝える聖餐式の伝承に現われる「私を記念して」という言葉を手がかりに、イエスやパウロの活動を千年王国運動と簡単に比較しながら、死者たちを、そしてイエスを記念するとはどういうことであるのかを、ご一緒に考えてみたいと思います。

II

 一般に「千年王国運動」と呼ばれるものの中から、二つほどご紹介します。

 1921年、ベルギー植民地下の中央アフリカのコンゴで、バプテスト派教会に属していたサイモン・キンバングはある幻視体験を通して、病気治癒を行うようになりました。彼の説教は、呪物崇拝を棄てて一神教に帰依すること、一夫一婦制を厳守することという穏当なものだったようです。しかし彼が病人を癒し、死者を生き返らせたという噂が広まると、民衆の圧倒的な支持を集めました。ベルギー植民地政府は、ただちにキンバングを騒乱罪で逮捕し死刑を宣告しますが、後に恩赦を受けて終身刑になり、30年間牢獄で生活した後、1951年に死去しました。キンバングの支持者たちは彼が黒人たちのメシアであり、彼の受難はイエスの苦難の反復であると考えました。そして「私は去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(ヨハネ福音書14,28)というイエスの言葉につなげて、彼が空から再臨することを期待したのだそうです。現在コンゴにはキンバング教会という会派が存在します。

 もうひとつは、ポリネシアのフィジー島の事例です。英国の実質支配下にあってほぼ完全にキリスト教化したこの島で1873年、ンドゥングモイという預言者が、現地の神ンデンゲイの名によって登場しました。彼は、神ンデンゲイの甥に当たる双子の神が、ノアの大洪水の後、西方つまり白人たちの国に旅していたが、じきに帰ってくると宣教しました。帰ってくる双子の神の名は「エホバ」と「イエス」です。そのとき白人たちの支配は終わり、白人たちの文明物資は現地住民に大量に提供されるであろうと言ったのです。彼は壜に水をいれ、それが「不死」(トゥカ)を与える「命の水」であると言って支援者たちに配りました。ンドゥングモイは逮捕され追放されましたが、彼の信奉者たちは指導者の死を信じず、彼はなお生きていて、不思議な絆で彼らと結ばれていると主張したのだそうです。

 以上の二つの事例には、明らかにキリスト教の影響が見られます。しかしもっと大切なのは、抑圧され虐げられている者たちにも生きる権利はあるのだという主張が共通していることです。キンバングは「黒人たちのメシア」として、コンゴ・ナショナリズムの高揚に影響を与えました。ンドゥングモイは、白人たちによる物資の独占に反対しています。イエスは「神の国」が誰のものだと言ったでしょうか。それはローマ皇帝でも王族でも貴族たちのものでもなく、貧しい者たち、柔和な者たち、迫害された人々、子どもたちのものだと彼は言ったのでした。そうした〈いと小さき人々〉こそが世の光・地の塩であると。

 もう一つ注目したいのは、千年王国運動のカリスマ的な指導者たちが、逮捕その他の受難によって、かえってその権威を高めていることです。支援者たちとの心の絆は、指導者の死を超えて続きます。イエスもまた自民族の貴族階級から扇動者として逮捕され、ローマの官憲に告発された後に処刑されましたが、彼の弟子たちは、イエスが天において「あらゆる主にまさる主」として即位し、やがて栄光のうちに到来すると期待したのではなかったでしょうか。私たちが現代に生きるローマ人であったなら、キンバングとンドゥングモイそしてイエスの信奉者たちの間に、果たしてどれほどの違いを見たでしょうか?

III

 それでも、イエスの「神の国」の宣教および原始キリスト教は、いくつかの点で千年王国運動とは決定的に違います。

 まずイエスの宣教は、ギリシアやローマの神話の影響をまったく受けていません。ゼウスの名によって宣教する預言者はイスラエルには基本的にいません。それと並んで大切なのは、イエスが異教文化を悪魔視していないこと、さらに自民族を、異民族との比較において特権視していないことです。イエスは、こう言いました。

 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、〔神〕の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、〔あなたたち〕は、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(マタイ8,11-12;ルカ13,28-29を参照)

 「東から西から」やってくる人とは異教徒のこと、「あなたたち」とは自民族の内部で自らを特権化し、他の同胞を差別をする「エリート」ユダヤ人のことです。

 つぎに、カリスマ運動の指導者たちが死後も生きていると信じられているとはいえ、信奉者たちが指導者の死後に、その顕現に接したという報告は見当たりません。復活顕現は、原始キリスト教に特徴的な現象です。

 そして最後に、原始キリスト教はその発祥の地であるパレスティナよりは、むしろその外部の地域、つまりユダヤ文化を圧迫していたヘレニズム・ローマ文化が支配的であった地域で急速に発展しました。これに対して、千年王国運動が植民地宗主国に広まった事例はありません。原始キリスト教だけが文化の境界線を越えたのです。ユダヤ人パウロは、「もはやユダヤ人もギリシア人もない」(ガラ3,28)という立場から異邦人伝道を推し進めました。エルサレム使徒会議では、割礼を受けたユダヤ人と割礼のない非ユダヤ人の両方に宣教することが承認されました(ガラ2,9を参照)。原始キリスト教には、民族の境を越えた「新しい人類」を形成するというプログラムがありました。

IV

 さて、そのパウロは、パレスティナ外部であるギリシアの商業都市コリントに自分が創設した教会に宛てて、手紙を書いています。今日のテキストがその一部です。そこで彼は、彼らの聖餐式のあり方について厳しく批判しています。コリント教会の人々は「神をみくびっている」(1コリ11,22)、彼らが「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」(20節)とまで彼は言います。いったい何が起こっていたのでしょうか。

 学者たちの間には諸説ありますが、コリント教会の「主の晩餐」は、今の私たちの聖餐式でいう「パンの儀式」と「ぶどう酒の儀式」の中間に「愛餐」が挟まるようなかたちで祝われていただろうと思います。通常のユダヤ教の食事では、「パンの祈り」とパン裂きは食事が始まることの合図、「ぶどう酒の祈り」は食事の終わりの儀式です。

 どうやら問題は、パンの儀式とぶどう酒の儀式に挟まれた「愛餐」の部分で生じていたようです。パウロは「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だ」(21節)と語っています。おそらく、金持ちの会員も貧乏な会員も、めいめいが食事を持ち寄ったのですが、互いに分かち合うことをしないで、自分がもってきたものを自分で食べていたのでしょう。その結果、立派なピクニックをもってきたお金持ちの会員は満腹した一方で、ろくな食事を用意できなかった会員はほとんど空腹なままであったのだろうと思います。つまり「主の晩餐」が分かち合いの場としてではなく、金持ちが貧者の前で自分の豊かさを見せびらかすための場になっていたのです。パウロが、あなたがたは「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(22節)というのは、おそらくこうした状況を前提しています。まるで、小さな千年王国運動が生まれてしまいそうです。

 「主の晩餐」は、キリストを信じるすべての人が平等に招かれる場所です。ですから人々の間に意見の違いがあったりするのは、あるていど自然です。しかし教会の中心にキリストがいることが不明瞭になったときは、ただ集まったからといって、それは教会とは言えないのだろうと思います。

V

 パウロがエルサレム原始教団から受け継いで、コリント教会にも伝えた聖餐式の伝承には「私の記念として」という表現が現われます(24節25節)。これは原語では「私の思い出に/追憶に」という意味です。私たちは、イエスの何を記憶すればよいのでしょうか。今はお盆そして敗戦記念日の季節です。私たちは死者をどのように記念すべきなのでしょうか。

 イエスの何を記憶するのかについて、今日のテキストはいくつかのヒントを与えてくれます。「私の体」(24節)、「私の血」(25節)という表現は、現在の文脈では、まちがいなくイエスの暴力的な死を指しています。私たちはイエスの虐殺を忘れてはなりません。

 つぎにそのようなイエスの悲惨な死こそが「新しい契約」であると言われています。「新しい契約」とは、古の預言者エレミヤが夢見たモーセ律法の更新です。石に刻まれた文字でなく、神の意思が人々の心に直接刻まれるときがくるという夢です(エレミヤ書31,31-34を参照)。イエスの死とは、神の心が私たちの心に刻まれるようなできとです。このことも私たちが記憶しておくべきことに当たります。

 そしてもう一つ、「あなたがたのため」(24節)という表現は、イエスの死が人々のための代理の死であったことを明示しています。この表現の背後には、おそらくイザヤ書の「苦難のしもべ」の歌があります。とりわけ「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53,11)といった言葉です。イエスの死は、たんに一人の人が処刑されたというだけのことではありませんでした。これらすべては、復活節のできごとを通して明らかになったことでした。復活のイエスとの出会いの体験が、彼の死をどのように記憶すべきかを教えてくれたのです。

VI

 さて、そこから何が原始キリスト教で生じたでしょうか。

 まず聖餐式には、象徴的なタブー破りが現われます。イエスは象徴的に「宥めの犠牲」と見なされていますが、これは人身御供というタブーに触れています。また「血を飲む」ことはユダヤ人には固く禁じられていました。そしてキリストの「体」を食し「血」を飲むとは、どんな文化においてもタブー視される人肉食(カニバリズム)を思い起こさせます。儀礼において、こうしたタブー破りが見られるのは通常のことです。そして象徴的なタブー破りは、実生活におけるタブーの強化を逆に生み出します。じっさい原始キリスト教は、動物を殺して血を流し、その肉を燃やしたり食べたりする神殿儀礼を放棄しました。聖餐式は、イマジネーションを通してイエスの暴力的な死に参加することで、現実の暴力を拒絶する態度を養うための場になりました。

 つぎに聖餐式は、民族間の憎悪を越える「和解」の共同体が生まれるための場になりました。驚くべきことに新約聖書には、イエスの殺害を不幸な冤罪事件として、例えば下手人であるローマ人を告発するような発言は、ほぼありません。(じつはユダヤ人に対する非難はあり、これはキリスト教の反ユダヤ主義に結びつく大問題なのですが、今日はふれません。)イエスは、「悪人に手向かってはならない」と教えました(マタイ福音書5,39)。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と(同5,45)。パウロは「今や、・・・イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義が啓示された」と教えました(ローマの信徒への手紙3,21-22を参照)。エフェソ書の著者は、キリストが「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現した」と言います(エフェソの信徒への手紙2,14-15)。こうしてイエスの死を媒介にして、民族の境を越えて人々が一つになれる場所が生まれました。

 もうひとつ大切なのは、教会という共同体は決してこの世に同化吸収されてしまうことがないことです。教会の中にいろいろな意見の違いがあって分裂が生じたり、あるいは貧富の差が教会に影響を与えたりします。そうしたことから教会がまったく自由であると思い込むのは幻想です。しかし、そうしたことが教会のアイデンティティーを覆い隠してしまうことを、教会はくりかえし自らを省みつつ拒否しなければなりません。

 十字架刑によって死んだキリストを神とすることと、例えば戦争で斃れた兵士を〈カミ〉として祭ることの違いは何でしょうか。それは、かつて敵側に立っていた人々との和解が提示されているかどうか、そこに文化横断的な共同体が成立するかどうか、そして将来的な暴力の行使がはっきり拒絶されているかどうか――などの点に関係することでしょう。キリストの「記念として」聖餐式を祝う共同体が歩むべき方向が、ここに示されていると思います。



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