2006・12・10

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「頭を上げなさい」

廣石 望

ヨエル書2,1-14;ルカ福音書21,25-33

I

待降節はキリストが赤子の姿で到来することの中に、神の到来を待ち望むときです。他方、私たちをとりまく世界では、「クリスマス」といってもそこに神の到来を待望する姿勢はほとんど見当たりません。あるのは華やいだ気分、笑い声、夜の繁華街のイルミネーション、そしてデパートで売られる贈り物です。同時に私たちの世界には戦争があり、子どもたちや教師たちの自死があり、官製談合と呼ばれる収賄事件があり、隣国の核兵器開発があり、教育基本法の「改正」があります。

今日の主日のために定められた聖書テキストは、紀元70年、ユダヤ戦争の末期に生じたエルサレム陥落を暗示するコンテキストに現れます。ローマ帝国からの政治的独立を目指したユダヤ反乱軍は最終的にはエルサレム城内に、そして神殿に立てこもって徹底抗戦しましたが、ついに神殿はローマ軍によって破壊され炎上しました。テキストそのものは、ある種の終末預言です。

よりによって世の終わりを描くテキストが、なぜ待降節の主日のために選ばれているのでしょうか。それは待降節が「神の到来」を待ち望む季節であり、世の終わりにおける「人の子」キリストの到来もまた神の到来にほかならないからだと思います。キリストの到来を待ち望むことは世の終わりを待ち望むことであり、御子イエスの誕生は最後の審判の始まり、この世界に対する神の最終決定的なふるまいの始まりなのです。今日はこのような視点から、キリストの到来を世の終わりの到来に重ね合わせて読んでみたいと思います。

II

25-28節では、ユダヤ教黙示思想の伝統的な世界像に従って、世の終わりが描かれます。天上界における異変は地上世界における異変と対応しています。天上界で「太陽と月と星」にしるしが現われ(25節)、「天体が揺り動かされる」(26節)とき、地上では「海がどよめき荒れ狂う」(25節)とあります。これらは神が定めた創造の秩序が崩壊してゆくさまを描く筆致です。その中で人間たちは戸惑うばかりです。「諸国民は不安に陥り」(25節)、「人々は恐れのあまり気を失う」(26節)とあります。「気を失う」とは、おそらくやさしい翻訳です。原語は「息が絶える」(岩波訳)と訳すことが可能です。

この終末の悲惨なありさまは、いったいキリストの誕生と何の関係があるのでしょうか。新約聖書の降誕物語をよく読むと、キリストの誕生が少なからぬ人々に恐怖と不安そして動揺をもたらしたことが知られます。

洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアは、主の御使いが神殿の内部に現われるのを見ます。そのとき「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」(ルカ1,12)。

イエスの母マリアは有名な受胎告知の場面で、天使ガブリエルから「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1,28)という挨拶を受けるのですが、彼女は「はい、ありがとうござます」とは答えません。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(1,29)。

さらにイエスの父ヨセフは、婚約者マリアがまだ一緒になる前に妊娠しているのを知ったとき、神の子の父親に選ばれたことを神に感謝したとはありません。そうではなく、「夫ヨセフは・・・マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると・・・」(マタイ1,19-20)。「このように考えていると」とある箇所は、岩波訳では「彼がこれらのことを〔悶々として〕思いめぐらしていると」と訳されています。マリアの妊娠は、ヨセフにとって大きな困惑と苦しみをもたらしたのです。

野宿しながら羊たちの番をしていた羊飼いたちは、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周囲をまばゆい光で照らしたとき「非常に恐れた」とあります(ルカ2,9)。

もう一人、キリストの誕生に接してひどく動揺した人物がいます。ユダヤの王ヘロデです。東方から星に導かれてエルサレムに到着した占星術の学者たちが、王に謁見して「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と質問したとき、こう言われています、「これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(マタイ2,3)。岩波訳は「ヘロデ王は〔これを〕聞いて動揺し、また全エルサレムも彼と共に〔動揺した〕」と訳しています。新しい王の誕生とは、内乱を予感させる不吉な知らせにほかなりませんでした。

ここに描かれた人々の反応は、私たちが通常知っているクリスマスの華やいだ気分とはまったく違います。この点に「神の到来」とは本来何であるかが、たいへんよく現われていると思います。神の到来は、私たちの生に、根源的な中断をもたらします。この世界の日常性は、そのとき決定的に断ち切られる。昨日まで、神のことなど考えもせず、「このままでよいのだ」と思ってしてきたことがもはや通用しないということが突如として明らかになります。大いなる中断をもたらすという意味で、キリストの降誕と世の終わりの到来は違いがありません。

III

しかし神の到来は、恐れや戸惑いをもたらすことが本来の目的ではありません。むしろ解放をもたらすことが、その目的です。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21,27-28)。

「人の子」とは世の終わりに到来し、いわば神の右腕として、最後の審判を執行する天使のような存在のことです。「雲に乗って来る」とは、旧約聖書の『ダニエル書』に出てくる表現を受けついだ表象で(ダニエル7,13-14)、世の終わりにおける最終決定的な神の到来を表現しています。原始キリスト教では、死者たちの中から起こされて天上界に挙げられて「神の右」に座するイエスこそ、世の終わりに到来する「人の子」にほかならないと信じられるようになりました。

天上界から「人の子」が下降してくるとき、地上界では何が起こると期待されているでしょうか。イエスは、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と言います(28節)。天上から雲に乗って降下する「人の子」という表現はあまりに古代的で、私たち現代人とは非常にかけ離れた世界観を表現している印象があります。それでも「身を起こして頭を上げなさい」という弟子たちを鼓舞するイエスの言葉は、私たちにも強く訴えるところがあります。不安と恐れ、困惑と戸惑いの中に倒れ伏していた者たち、あるいは戦乱の中を逃げ惑い、絶望と恐怖の中で地に身を伏せていた者たちが立ち上がり、頭を上げて天を仰ぎ、確信と自尊心をとりもどすのです。なぜなら「あなた方の解放のときが近いからだ」(28節)。

解放は、太古の昔より聖書全体のメッセージです。「奴隷の家」であったエジプトからの解放、バビロン捕囚からの解放。キリストの到来もまた、解放を告げるためでした。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4,18におけるイザヤ61,1-2の引用)。

IV

この解放のときが近いことは、前兆から確実に知られるとイエスは言います。「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(30-31節)。

キリストの誕生に関わった人々も、いろいろなしるしを見ました。

洗礼者ヨハネの父ザカリアは、――先週、村上牧師が説教されたように――自分たち老夫婦に男子が誕生するというできごとに接して、「神がこの子を通して何か計画しておられるのではないか」という思いに打たれました。

イエスの母マリアは、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。・・・神にできないことは何一つない」という天使ガブリエルのお告げを聞きます(ルカ1,36-37)。このしるしに接して彼女は、「お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と天使に答えるのです。

羊飼いたちはベツレヘムの村を訪ねて、主の御使いが彼らに告げたとおり、その村で「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」を見出しました(ルカ2,16)。不思議なことです。

イエスの父ヨセフは、夢に現れる天使のお告げによって行動しました。マリアを妻として受け入れ、その息子を「イエス」と名づけて認知し、さらにヘロデ王による幼児虐殺から母子を救いました(マタイ1,20以下、2,13以下)。

東方の博士たちは、星が昇るのを見て、そこに新しい王の誕生を見てとりました(マタイ2,2)。

さまざまなしるし――予期せぬ時に生まれてくる子ども、思いがけず私の身に宿った命、貧しい夫婦の間に生まれた赤子、羊飼いたちを照らしたまばゆい夜の光、夢に現れた天使、天空に昇る新しい星。そして、いちじくの葉。ナザレのイエスの生と死、彼の顕現と復活。私たちの生と死。世界はしるしに満ちています。

V

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)。「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(31節)。

「解放」の時としての「神の国」は近い。キリストの誕生を祝う日が、私たちに近づいているように。使徒パウロは、イエス・キリストへの信仰を介してできごととなる神の義を、「キリスト・イエスにおける解放」と呼びます(ローマ3,24――新共同訳は「贖い」と訳す)。また彼は言います、「被造物のすべてが今日まで、共にうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子らとされること、つまり体の贖われることを〔解放されることを〕、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(ローマ8,22-23)。近づいた解放に対する適切な態度とは、不安と恐怖を棄て去り、うめきながらでも頭を上げること、すなわち信仰にほかなりません。

キリストの誕生とは何でしょうか。それは私たちのこれまでのあり方に根源的な中断をもたらし、新しい時を導入することで解放をもたらす「神の到来」です。それは世の終わりのできごと、世界の神秘である愛の神が到来するというできごとです。私たちの内側で信仰が創りだされ、それによって私たちが創りかえられるできごとです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21,33)。神の言葉であるキリストの誕生を、今年も頭を上げつつ待ち望みましょう。

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