2006・5・28

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「神の似姿」

廣石 望

イザヤ書60,1-7コリントの信徒への手紙二 3,18-4,6

I

先週の木曜日、25日は「昇天日」でした。イエス・キリストは復活した後、40日間弟子たちに顕現した後で天に昇った、と使徒言行録にあります(使徒1,6-11)。そのため、今日の日曜日は「昇天後主日」と呼ばれています。キリストが天に昇ったとは、もちろん古代的な表現です。現代人である私たちは、もはや古代人のように、文字通り天の彼方に神の玉座があり、その右にキリストが座しているとは考えません。キリスト探索の宇宙ロケットを打ち上げる人はいません。では、キリストの昇天とは、私たちにとって何を意味するでしょうか。

それはひとつには、キリストがもはや、私たちと同じような仕方で地上に存在しているわけでないことを意味します。墓の中にキリストを探そうとした女性たちに、天使は「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言ったのでした(マルコ16,6)。

他方で、キリストの昇天は、イエス・キリストと弟子たちの関係が、地上における水平的な出会いの関係から、天上と地上の間の巨大な空間を隔てた関係へと変化したこと、つまりキリストとの関係が、復活以前とは質的に変化したことを意味します。そのとき「主イエスが私たちと共におられる」(マタイ28.20参照)という私たちの信仰は、どう理解すればよいでしょうか。古代キリスト教徒は、天上のキリストが彼の霊を私たちに注ぎかけることによって「キリストは私たちと共におられる」と考えました。来週私たちは、その出来事を記念して、「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」を音楽礼拝として祝うことになっています。

今日は、パウロの言葉を手がかりに、天上のキリストと地上の私たちの関係について考えて見ましょう。

II

キリストは「神の似姿」であるという発言が現れます(コリント第二 4,4)。他方、創世記の有名な記述では、男と女として創造された人間もまた「神の似姿」であると言われています(創1,26-27)。パウロは言います、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(コリント第二 3,18)。「主と同じ姿に造りかえられる」という表現に注目してください。ここで「姿」と訳されているのは、キリストが神の「似姿」であるというときの「姿」と同じ語です(ギリシア語「エイコーン」)。さらに「造りかえられる」と訳されている単語は「変身する」、メタモルフォーゼを遂げるというギリシア語です。パウロは、キリストも、そして本来は人も神を映し出す存在であり、人は「神の似姿」であるキリストを通して変身を遂げることで、神の輝きを映し出すようになる、と述べているわけです。

古代ギリシアの宗教では、神々は変幻自在に変身を遂げました。白鳥や黄金の雨の雫に変身しました。また娘を探すために老女に身をやつした女神が、人間の前で突如として真の神々しい姿に変身することもあります。あるいは魔法でロバに変えられた人間を、再び人間の姿に戻してやることもできました。

現代においても、「変身」はとても身近なテーマです。子ども向けのアニメや大人向けのTVドラマには――例えば「仮面ライダー」「セーラームーン」あるいは「水戸黄門」を思い出してください――、このモチーフがくりかえし現われます。さらに少なからぬ若者たちが、新しいことに挑戦する理由を尋ねられて、「私は変わりたいんです」「新しい自分を見つけたいからです」と真顔で答えます。「自分を見つめなおしたい」とも。自分を見つめることについては、後でもう一度ふれます。

III

私たちの「変身」は、いつ起こるのでしょうか。パウロにも強烈な影響を与えている、古代ユダヤ教の黙示思想によれば、それは終末に期待されていました。「今の世」が過ぎ去り、すべてがまったく新しい「来るべき世」へと更新されるとき、人間もまったくリニューアルされるという希望です。「そのとき義人たちの姿は、彼らの栄光の光に照らされて変容し、死を知らぬ世界をわがものとして受けとることができるようになるであろう」(シリア語バルク黙示録51,3)。パウロも言います、「私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパがなると、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます」(コリント第一 15,51-52)。この世の終わりになって初めて、人は変身することができる――これが標準的な理解です。

しかしパウロ自身は、すでにキリストの復活を過去の出来事として知っています。それはキリストが「神の似姿」へと決定的な変身を遂げる出来事でした。「覆い(をとりのぞく)」「神の(似)姿」「栄光」「霊」「光(と闇)」「変身」といった一連のモチーフは、ユダヤ教の黙示思想ないし神秘思想とのつながりを予想させます。つまり天上のキリストが、「栄光」と呼ばれた天的な存在、例えば天上のアダム、天上の天使、預言者エゼキエルが幻で見た「人間のように見える姿をしたもの」(エゼキエル 1,26)と重ね合わせて理解されているように思われます。この存在は、この世が作られる前から存在し、世界の創造を仲介しました。ですからキリストについても、こう言われます、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。・・・万物は御子において造られたからです」(コロサイ 1,15-16)。

世の終わりに初めて起こると信じられていた「変身」は、キリストにおいては、すでに現実となりました。そのキリストは、現在「神の似姿」として天におられる。そのときキリストを信じる者たちにとって、最終決定的ではないにせよ、何らかの意味での「変身」が、すでに現在のプロセスとして生じている――そうパウロは考えているようです。そのとき私たちに、何が起こるのでしょうか?

IV

4章1-2節を見ると、そのとき私たちはがっかりしたり、こそこそ悪巧みをしたり、あるいは「神の言葉」を曲げたりしないで、真理を明らかにすることで、神の前で、人々の良心に信頼して、心安んじて自らを人々に委ねるようになるとあります。これが現在における私たちの「変身」の徴です。

 しかし続く3-4節は、それが決して容易な生き方でないことを示します。福音を伝えても拒絶されるという現実があるからです。それは「この世の神」が人々の心に覆いをかけているからだ、とパウロは言います。「この世の神」とはサタンのことでしょう。この発言は、私たちの努力ではどうにもならない限界に突き当たっても、私たちを信じてくれない人々を憎んだり恨んだりしてはならない、という意味に理解できるかも知れません。

5節は、そのような困難な状況にあっても、大切なのはキリストに注目することだと述べています。重要なのは「私たち」ではなく、キリストである。キリストのゆえに、私たちは、誰かのために生産的な働きをすることができる、と。

V

人々の良心に信頼し、不信で応える人々も含めて、キリストのゆえに、この世界に仕えること――これが、私たちがこの世にあって「主と同じ姿に造りかえられて」(3,18)いくありさまです。そのとき何が起こっているのでしょうか。6節でパウロは、「闇から光が輝き出でよ」という世界創造にも等しいことが、私の内面で起こると言います。世界を創造し、いのちを生み出した神が私たちの心の中を照らし、キリストの顔が神の輝きを映すものであることを悟るようになると。

先日の週報「牧師室から」の欄で、村上牧師が八木重吉のある印象的な詩を引用しておられました。

きりすと
われによみがえれば
よみがえりにあたいするもの
すべていのちをふきかえしゆくなり
うらぶれはてしわれなりしかど
あたいなき
すぎこしかたにはあらじとおもう  (『春のみず』1925年)

「きりすと/われによみがえれば」とは、私の中で、キリストが「神の似姿」であること、彼の顔に「神の栄光」が輝いていることが了解された、ということではないでしょうか。そして「よみがえりにあたいするもの/すべていのちをふきかえしゆくなり」とは、私を含む世界が変貌を遂げてゆくことに他なりません。

「顔」(4,6)は、「鏡」(3,18)のように、私たちが互いに見つめあう存在を映しあう場です。他者の顔とは、私を映す鏡です。キリストを見つめるとき、キリストは私を映す鏡となります。「うらぶれはてしわれなりしかど/あたいなき/すぎこしかたにはあらじとおもう」。つまり復活のキリストに注目することは、新しく「自分を見つめる」こと、私の「変身」につながるのだと思います。


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