イースターの礼拝で一人の姉妹が洗礼を受けた。それを見ていて、私は深い感動と感謝に満たされた。廣石先生の最初の司式だったということもあるが、特に、この姉妹が困難を乗り越えて人生の新しい第一歩を踏み出したことに心を打たれたのである。先ほど読んだコロサイ書2章12節に、「洗礼(バプテスマ)によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた」とあるように、洗礼によって私たちの古い自己はキリストと共に死に、新しい自己が復活者キリストと共に復活するのだ。
さて、この機会に「洗礼」について少し述べておきたい。近頃、新聞などがしきりにこの言葉を乱用する。「原爆の洗礼」などと言う。この言葉はキリスト教の長い伝統の中で大切にされてきた。このことに、少しは敬意を払ってもらいたい。
それはともかく、「洗礼」という言葉は、どの福音書でも主イエスの登場とほとんど同時に出てくる。それを始めたのは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人物であった。マルコ福音書1章4節に、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた」とある通りである。
ルカの叙述は、もう少し詳しい。それによると、洗礼者ヨハネは民衆に厳しく「悔い改め」を要求して、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(3章7-8節)と迫ったという。さらに彼は、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(9節)とたたみかけた。人々はこの言葉に恐らく震え上がったであろう。そして、深い畏れとともに悔い改めを誓い、その徴として洗礼を受けたのである。「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」とは、このことを言う。
だが、このヨハネの厳しい要求に対して、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(10節)と反問した人々がいたという。この問いからは、「そんなに厳しいことを言われたって・・・」という困惑の調子がうかがえないだろうか。厳しい要求の前で、いわば立ち尽くす人々がいる。これもまた人間の現実の一面である。
作家の遠藤周作は、子供の頃カトリックで洗礼を受けた人だが、終生、西洋のキリスト教を支配している「厳しさ」に抜き難い違和感を覚えていたという。それが彼の文学のテーマでもあったが、これは彼だけの問題ではあるまい。
洗礼者ヨハネは厳しく「悔い改め」を要求した。その厳しさは旧約の預言者たちの伝統に立つもので、無論これは正しいのである。そして、「厳しさが人を助ける」(キールケゴール)というのは真理であって、学問でも芸術でも厳しさがなければ目的を達成することはできない。信仰生活についても同じことが言えよう。
だが反面、この「厳しさ」について行けない人々がいるということも、この世の現実である。「厳しさ」がいくら大切でも、人はそれだけでは生きて行けないのだ。
この点で、ヨハネの後に登場するイエスは全く違う。彼は、この偉大な先駆者から洗礼を受けて間もなく、少年時代を過ごしたナザレの村にやって来た。そして、ある安息日に会堂に入り、イザヤ書61章冒頭の言葉に目を留めて、それを朗読した。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4章18節)。イエスはこの時、これが自分の使命であると自覚したのだろう。
苦しみからの解放・失われたものの回復・自由の喜び! 正にこのために、神は自分をこの世にお送りになったのだ、と彼は信じた。だから、イエスは人々に厳し過ぎる要求を突きつけることはしない。むしろ、律法の重荷を背負わされて苦しんでいる人々に、「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と優しく語りかけるのである。
ここで、先ほど引用した12節の言葉にもう一度戻りたい。「洗礼(バプテスマ)によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。この短い文章に、「キリスト」という名が三度繰り返されていることに注目してほしい。
つまり、ここで言及されている洗礼は、「キリストの御名による洗礼」だ、ということだ。これは、ヨハネが要求した「悔い改めの洗礼」とは微妙に違う。むろん、「悔い改め」は依然としてなさればならない。しかし、それだけではない。「キリストの御名による洗礼」は、ヨハネが要求した「悔い改めの洗礼」を超えるものだ。それは、重荷を負う人々を、誰であれ優しく受け入れて、その疲労から「休ませる洗礼」である。「罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださった」(13節)と言われているように、私たちを丸ごと「受け入れる洗礼」、キリストと共に「復活させて下さる洗礼」である。また、「神はわたしたちの一切の罪を赦す」(同)と言われている。これは「赦しの洗礼」である。さらに、「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し」(14節)と言う。これは、いわば消費者金融から借金して、そのあまりの高利に苦しんでいる人が負債を棒引きにされるように、罪と死の重荷から解き放つ「解放の洗礼」である!
先週の週報に、私は八木重吉の詩を載せた。「きりすと われによみがえれば よみがえりにあたいするもの すべていのちをふきかえしゆくなり うらぶれはてしわれなりしかど あたいなき すぎこしかたにはあらじとおもう」。これこそ、「キリストの御名による洗礼」の意味なのである。