2005・11・27

待降節第1主日礼拝「封じられた巻物を開く」

村上 伸

エレミヤ書23,5-8ヨハネ黙示録5,1-5

 今日から待降節(アドヴェント)に入る。その第1主日のために選ばれた説教テキストはヨハネ黙示録5章1-5節だ。実は、2002年6月にも同じ箇所について説教したことがあるので、その時のノートを読み直してみた。そこでは先ず、ヨハネが見た「幻」の意味について述べている。それは単なる「幻覚」ではなく、世界史の隠された現実への洞察だ、ということである。今日も、このことから話を始めたい。

3年前、私の心に重くのしかかっていたのは、当時の世界の情況であった。パレスチナでは泥沼のような戦いが相変わらず続いていた。イラク戦争はまだ始まっていなかったが、ブッシュ大統領とその側近たち、いわゆる「ネオコン」の指導者たちは、気に入らない国々を「悪の枢軸」と呼んで、「予防戦争」、あるいは「先制攻撃」をまさに始めようとしていたし、この政策は、「宗教右派」、あるいはキリスト教原理主義者たちによって熱烈に支持されていた。そして日本は、専らアメリカの戦略に沿う形で「日米同盟」の強化を進めており、憲法を改正して軍隊を持てるようにすべきだという声が日増しに高まっていた。

大局的に見れば、この流れは今も変わらない。2003年3月、遂にイラク戦争が始まると、自衛隊が派遣され、憲法9条は事実上空洞化された。米軍は圧倒的な軍事力で戦争には勝ったものの本当の平和は来ず、むしろ、それによってテロは全世界に拡散した。私たちは、こうした流れを止めることはできなかったのである。

内政においては、いろいろな面で行き詰まっているのは明らかなのに、政権与党が圧勝した。「一体、この国の将来はどうなるのか?」と考えると、私たちはしばしば無力感に襲われた。3年前の説教の中で私自身、「時々、どうにもならないのではないかという無力感に襲われることがある」と告白している。

ヨハネがこの『黙示録』を書いた頃も、情況は似ていた。彼の目に見えていたのは、「どうにもならない現実」であった。当時、ローマの皇帝は悪名高いドミティアーヌスだったが、彼の支配は1年や2年では終わらず、81年から96年まで、実に15年間も続いたのである。このドミティアーヌスの下で、皇帝を神として礼拝する国家的儀礼が確立し、この「皇帝礼拝」が特にアジア州の諸教会に強制された。日本統治下の朝鮮で「神社参拝」が強制され、多くのキリスト者が殉教したように、命令に従わないキリスト教徒には激しい迫害が加えられた。この地方の教会の指導者であったヨハネ自身も捕えられて、パトモス島に幽閉された。それが目に見える現実であって、教会はこれからどうなるのか、世界の歴史はどこへ向かうのか、全く先が見えなかったのである。むろん、個々の出来事が起こった経緯や、その後の経過は同じではない。しかし、先が見えない不透明感や、「これから一体どうなるのか?」という不安は、現代の私たちとも共通している。

その中で、ヨハネは「幻」を見たという。によると、最初に見えたのは「天上におられるキリスト」1章9節以下)の幻であった。そこでは、キリストは13-16節に描写されているように、栄光に満ちた姿で現れる。そして、「その足もとに倒れて、死んだようになって」(17節)いるヨハネに対して、「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(17-18節)と力強く語りかける。歴史を支配するのは地上の権力者ではなく、キリストである。だから、恐れるな!

ヨハネはこの雄渾なメッセージを確かに受け止め、それを七つの教会に伝える。その後で、彼はさらに「天上の礼拝」4章2-8節)の幻を見た。天では「真に礼拝されるべき方が礼拝されていた」という幻である。暴虐な地上の権力者・ローマ皇帝ではなく、万物の創造者・歴史の支配者である全能の神が礼拝されている!

この幻の続きが、今日の箇所である。「またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた」(5章1節)。これは何を意味するのだろうか?

この世界はどうなるのか?それは封じられている。人間には見えない。「天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった」(3節)。だから、ヨハネは途方に暮れて「激しく泣いていた」(4節)。すると長老の一人が彼に言う。「泣くな。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(5節)。

「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」とは、主イエスのことである。彼こそ、封じられた巻物を開くに相応しい方であり、世界史の隠された意味を解き明かすことができる、というのである。

何故か? 主イエスは、小羊のように柔和であったからである。暴力的な人には、真実は決して見えない。また、主イエスは自らを低くし、謙虚に他者に仕えられたからである。驕り高ぶる人には、世界史への洞察は与えられない。さらに、主イエスはひたすら他者を愛されたからである。愛に生きる人だけが真実を知る。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(1ヨハネ4章7節)。最後に、主イエスは心無いこの世の人々によって十字架上で殺されたが、神の力によって再び生ける者となられたからである。他者を愛さず、その命を軽んじるような人には、世界史の究極の意味は決して見えない。

そのような主イエスが、今、私たちのところに来られる! このことを共に喜びたい。


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