ここでヨハネは、4章に続いて幻を見ている。ヨハネの黙示録が「幻を見る」と言うとき、それは単なる「幻覚」ではない。「普通の物の見方を超えたところから世界史の現実を見る」ということであろう。
私が言う「普通の物の見方」とは、換言すれば、ごく普通の人間として生きている我々の「ホンネ」と言ってもいい。例えば、パレスチナで繰り返し起こっている泥沼のような憎悪と報復の悪循環、あるいは、「悪の枢軸」と名指しされた国々と米国指導部との間の抜き難い不信感、インドとパキスタンの長年の緊張 ―― こういった問題を、我々は殆ど絶望的な気分で見ている。「ホンネ」を言えば、「もうどうにもならないのではないか」と言いたいくらいである。
もっと身近な例を挙げれば、我々の国の現状だ。最近のNHKの世論調査によれば、ほぼ半分近い国民が「いかなる政党も支持しない」と答えたという。これは、尋常ではない。政治家や官僚がやっていることに、国民は呆れ果てている。政治に限らない。あらゆる分野にわたって、この国には「何も信用できない」という気分が充満している。日常使っている薬や化粧品、食べ物にも、何が入っているか分からない。人々は、投げやりな調子で「どうしようもない!」と言う。これが「普通の物の見方」である。
だが、この投げやりな気分の中で、我々は聖書の言葉に出会う。そのとき、我々は普通の物の見方を超える。例えば、ローマ8,18−25がそうだ。
―― 絶望的に見えるこの世界も、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる」。その時を、我々は「心の中でうめきながら」待ち望んでいる。「わたしたちは、このような希望によって救われて」いるのであり、この「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望む」のだ、と言う。この「目に見えないものを望む」ということこそ、「幻」に他ならない。
ヨハネが幻で見たものは、「普通の物の見方」を超えた所からしか見えてこない希望である。それは、4章によると、「天上の礼拝」であった。輝くような玉座があり、その周りには四つの不思議な生き物がいて、「かつておられ、今おられ、やがて来られる…全能の神」(8)が歴史の支配者であると告白している。また、白い衣を着た24人の長老も、そのことの故に神を賛美している(11)。黙示文学の伝統では、やがてこの地上で起こる筈のことは先ず天に現われる、と考えられているのである。
我々は、この世界でウンザリするほど繰り返されている人間の愚かさに絶望し、この世界は滅びに向かっていると感じているだろう。これが「普通の物の見方」だ。だが、聖書はこの見方を超える。天で行われている美しい礼拝は、必ず我々の世界の中でも実現するだろう! その幻を、ヨハネは見たのである。
この幻が今日の所でも続いている。「玉座に座っておられる方」、つまり、歴史の支配者である神の右の手に、七つの封印で封じられた巻き物があり、「表にも裏に文字が書いて」あるのが見えた。「封印された巻物」とは何か? そこには一体、何が書いてあるのか?
世界史で「これから起こること」についてである。歴史の支配者である神は、世界史がどこに向かうかを知っており、それが天にある巻物には既に記されている。このことを、ヨハネは信じていた。だが、その封印を解く者がいない。巻物には「世界史の終局」について書いてあるのだが、「天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった」(3)。
要するに、先が見えないのである。そのために、ヨハネは「激しく泣いていた」(4)。将来に対して不安があり、途方に暮れた時、人は泣きたくなるものだ。その頃、アジア州はローマ帝国の支配下にあり、キリスト教徒は皇帝礼拝を強制され、各地の教会は断続的に迫害にさらされた。そして、ヨハネ自身もパトモス島に幽閉されている。一体、教会はどうなるのか? 世界史はどこに向かおうとしているのか? 人は不安に閉ざされ、途方に暮れることもあったであろう。
敗戦のとき、私は八王子の陸軍幼年学校から廃墟の東京に放り出された。故郷に帰るように言われたのだが、私には行く所がなかった。軍人の父は南京におり、母や姉妹は満州に残されていて、一家はバラバラだった。津軽の母の里に行こうかと考えた私は、朝早く上野駅に行った。数万の復員兵士たちが駅の内外を埋め尽くしており、いつ出るか分からぬ列車を待って友人と二人で夜通し雨の中に立ち尽くしていたが、明け方漸く順番が来て、乗り込もうと思ったとたんに人の渦の中に巻き込まれて意識を失った。気がつくと、友人はホームと列車の間に落ちてもがいている。やっとの思いで彼を助け出した私は、もう津軽へ行く気力も失せ、二人で八王子の学校の焼け跡に戻った。その時、私は本当に途方に暮れて、体の芯が抜かれたようだった。ただ泣けてきた。ヨハネが「激しく泣いた」というのも、分かるような気がする。
しかしその時、長老の一人がヨハネに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(5)。これはイエスのことである。世界史がどこに向かうかは、封印されている。解読できるのは、イエスの他にはない。彼の十字架と復活。そこに表された愛と真実。それが、それだけが、世界史の封印を解くのである。