2005・9・25

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「世にあって星のように」

廣石 望

オバデヤ書1-7フィリピの信徒への手紙2,12-16

I

先日、大学のサマーキャンプで、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』という本を、講師の方を招いて、学生たちとともに読みました(原著1965年、邦訳は上遠恵子訳、新潮社、1996年)。衆院選挙の結果や改憲論議を含めて最近は暗い話題が多い中で、自分をリフレッシュさせるよい機会になりました。

カーソンは、農薬による環境汚染について警告した『沈黙の春』(原著1962年、邦訳は青木梁一訳、新潮社)という書物で知られた海洋生物学者です。『センス・オブ・ワンダー』は彼女の未完の遺作になりました。米国メーン州の海と森に囲まれた彼女の別荘で、休暇ごとに、姪の幼い息子ロジャーとともに自然の中で過ごした体験を、分かりやすい言葉で綴ったものです。ベストセラーですので、お読みになった方もおられるでしょう。

表題の「センス・オブ・ワンダー the sense of wonder」とは、彼女自身の言葉を借りれば、「美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知のものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情」のことです(26頁)。彼女は、「星」について次のように言います(31頁)。

たとえ、たったひとつの星の名前すら知らなくとも、子どもたちといっしょに宇宙のはてしない広さのなかに心を解き放ち、ただよわせるといった体験を共有することはできます。そして、子どもといっしょに宇宙の美しさに酔いながら、いま見ているものがもつ意味に思いをめぐらし、驚嘆することもできるのです。

この言葉を読んだとき、神がイスラエル民族の父祖アブラハムを、夜半にテントの外に連れ出し、満天の星空を仰がせながら、彼の子孫をそのように大勢にすると約束した、という美しい物語を思い起こしました(創15,5)。そしてもうひとつ、「世にあって、星のように輝く」という、説教のテキストに選んだパウロの言葉も。今日は、「世にあって、星のように」とは何を意味するかを理解するために、聖書の「星」に関する言葉を拾いながら、私たち自身のセンス・オブ・ワンダーを少しだけ豊かなものすることを試みてみましょう。


II

「われわれが地上で生を営みながら、しかも星々を見ることができるということ・・・――これは、信じがたい驚異である」(ハンス・ブルーメンベルク『コペルニクス的宇宙の生成』の冒頭)。地球の大気が私たちの視界を完全に遮るほどには分厚くなく、しかし宇宙からの有害な放射物をブロックして、地上に生命が生きのびるには十分な濃密さがある。この絶妙なバランスのゆえに、私たちは地上にいながらにして、宇宙の無限の深部を覗き込むことができる――これは実際に驚くべきことです。

古代世界において、星々は聖なる存在でした。星々は、人間の心に、戦慄と魅惑の入り混じった神秘的な感情を、畏怖と賛嘆の両方の念を惹き起こすものでした。

一方では、天空の世界は神々の世界でした。星々は、宇宙を支配する諸々の霊ないし神として畏怖と崇拝の対象とされました。バビロニアには占星術の偉大な伝統があります。また星々は、ギリシア神話を筆頭に、多くの民族において様々な神話に彩られています。古代イスラエルでも星辰崇拝は行われていました。紀元前7世紀後半、ヨシア王が宗教改革を行ったとき、「ユダの諸王が立てて、ユダの町々やエルサレムの周辺の聖なる高台で香を焚かせてきた神官たち、またバアルや太陽、月、星座、天の万象に香をたく者たちを廃止した」(列王下23,5)とあります。

他方で、後代のユダヤ教では、創世記冒頭の創造神話にあるように、ヤハウェ一神による創造信仰を持つようになります。太陽や月、そして星々は、イスラエルの民族神であるヤハウェが創造した被造物であって神ではない、という強い主張がそこにあります(創1,14-18を参照)。「神は北斗やオリオンを、すばるや南の星座を造られた」(ヨブ9,9)。星々を畏れてはならない、崇拝してはならない。――これは占星術が最高の科学知識であった古代世界にあって、神々である星辰から神聖さを剥奪し、創造神の意志のみに基づいて世界を合理的に理解することで世界を「脱・魔術化」してゆく、という激烈な思想闘争であったと思います。世界と歴史を支配するのは神なのか否か、私の運命を決するのは神なのか否か、という問いは今でも続いています。

さて、星々が被造物と見なされた後も、天空は人々を魅了し続けました。詩編には、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」とあります(詩19,2-5)。天空や夜昼は、無言・無音のままに、創造者ヤハウェに関する知識を伝えてゆく。後にこの箇所は、天体の輝きや運行のさまを、音を伴わない音楽的な調和、天上の音楽として歌ったものと考えられるようになりました。

星々の世界は、それが神であれ、被造物であれ、何れにせよこの世界の永続的な構造を代表していました。しかし、宇宙崩壊の幻をみた預言者は、そのとき「地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う」と言いました(ヨエ2,10)。同様のイマジネーションは、ヨハネの黙示録などのキリスト教文書にも現われます。こうした感受性の中には、星々の世界が私たちに与える戦慄の神秘が、「ヤハウェの怒り」の主題のもとに、なお保たれているのかも知れません。


III

聖書では、星々は<神か被造物か>という二者択一に留まりません。神々の世界から一段階下の世界に属する者たちも「星」のイメージで描かれます。その代表的な存在が「天使」「王」そして「メシア」です。

イザヤ書に保存された、バビロンの王に対する「嘲りの歌」に次のような一節があります(イザ14,12-15)

ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。
お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。
かつて、お前は心に思った。
「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え、
神々の集う北の果ての山に座し
雲の頂に上って/いと高き者のようになろう」と。
しかし、お前は黄泉に落とされた/墓穴の底に。

ここでは諸国を圧倒して絶対的な権勢をふるったバビロンの王が、天上の「明けの明星」「曙の子」という星の名で呼ばれています。後のユダヤ教では、「明けの明星」(ラテン語訳で「ルシファー」)とは堕落天使のことであると解釈され、このテキストは天使論・サタン論にとってとても重要な箇所になりました。

天使に関して言えば、ヨハネの黙示録で、全能者キリストの右手にある「七つの星」は七つの教会の守護天使たちです(黙1,20)。サタンとの関連で言えば、新約聖書には、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」というイエスの言葉が伝えられています(ルカ10,18)。天使やサタンは私たちには遠い存在ですが、イエスを含めて古代の民衆は、そうした存在を夜空の星々と結びつけて理解していました。

マタイ福音書には、キリスト降誕に際して、東方の占星術の学者たちが次のように言います、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で、その方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタ2,3)。「星」はメシアのシンボルです。紀元135年、ローマ帝国に対する第二次ユダヤ戦争を指導したシメオン・バル・コシバは、「バル・コクバ」つまり「星の子」と綽名されました。これはメシアということです。

星々は天上界に属する神々と見なされたのみならず、天使(悪魔)・王・メシアなどの超人的な存在も「星」と呼ばれたのです。そういえば私たちの間にも、「スター」と呼ばれる人たちがいますね。


IV

さて、神々や天使たちだけでなく、そして王やメシアだけでなく、ふつうの人間が「星」と呼ばれている箇所が旧約聖書にあります。それはダニエル書です。この書物は、紀元前2世紀の中葉、イスラエル民族がギリシア系王朝の支配下にあって、激烈な宗教迫害にさらされた時期に成立しました。殉教者がたくさん出ました。ダニエル書には終末期待が濃厚です。世の終わりに最後の審判が行われ、殉教者たちは神によって復活させられて、永遠の祝福に入るだろうという希望です。そこに「星」という表現が現われます(ダニ12,2-3)

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。

皆さん、パウロがフィリピ教会の信徒たちに、あなたたちは「神の子として、世にあって星のように輝くでしょう」と言うとき、きっとこのダニエル書のことを考えていたと思います。

両者の大きな違いは、「星のように輝く」のはいつか、ということにあります。ダニエル書では、将来「世の終わり」が来て、死人たちの復活が起こるときとされていますが、パウロは「世にあって輝く」と言います。つまり〈世にあって今ここで〉という意味です。


V

以上で、聖書の「星々」をめぐる小さな旅は終わりです。聖書における「星々」の歴史は、神々の世界から、天空の被造物、さらには天使やサタン、王やメシアを経て、世の終わり、そして普通の人間の世界へと降ってくる歴史でした。パウロは「君たちは世にあって、星のように輝く」と言うのですから。星々は脱神話化され、人間化されたと言ってもよいでしょう。しかし同時に、ここで「神の子として、星のように輝く」と言われていることも見逃せません。あたかも私たちが星々の世界に引き上げられ、神の子らとして神々の仲間入りをするかのようです。パウロの言葉の背後には、聖書の人々が「星々」となしてきた、戦慄と魅惑に満ちた神秘的な経験が広がっているのです。このことを感じとることは、カーソンの言う「センス・オブ・ワンダー」にも即しているでしょう。


VI

最後に、パウロの言葉から、「神の子として、世にあって、星のように輝く」とは何を意味するかについて、幾つかのことを短く申し上げます。

まず、星の輝きがそれぞれ異なるように、私たち一人ひとりは個性的な存在です。私たちは小さな群れですけれど、その一人ひとりが独立した星の輝きをもっている。教会は、その多様な輝きが構成する一つの星座のようなものです。

つぎに、夜空の星々は雲がかかれば隠れますが、晴れれば元の輝きを取り戻します。私たちも、一時的には雲隠れすることがあったとしても、この世に埋没して消滅してしまうことはできません。私たちは自分の存在を完全に隠すことはできません。「私はここにいるよ」「これが私だよ」と、世に向かって自らを示し続ける必要があると思います。

その際に、私たちの輝きはこの世に由来しません。それは、私の能力や限界の彼方の天界から差し込んでくる光です。「あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(13節)とあるとおりです。その意味で私たちは、この世にあっても、この世から生きる者ではありません。「神の子」とは、神の支配領域に属する者という意味です。

そしてもうひとつ、「命の言葉をしっかり保つでしょう」(16節)という文章は、ギリシア語の原文を見るかぎり、「命の言葉をしっかり保ちながら/保つことで、星のように輝く」と理解するのがよいと思います。「命の言葉」を保つことが、星のように輝くことの内的な条件なのです。「命の言葉」とは福音の言葉、十字架の言葉であると思います。私たちは、この世界の美しさや不思議さに対する感受性と、福音の言葉が放つ美しさや不思議さに対する驚嘆の念を日々新たにしつつ、「世にあって輝く」という神から与えられた尊厳に相応しく歩みたいと思います。


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