I
先ほどお読みしたヨエル書のテキストは、ペンテコステの出来事を預言したものとして使徒言行録2章で引用されます(使2,17-21)。聖霊に満たされた人々が「他の国々の言葉」で福音を語り始めるという出来事が、ヨエル預言の成就とされています。神がすべての人に霊を注ぎ、主イエスの御名を呼ぶ者たちすべてが救われる――これは、新しい時代の幕開けを告げる言葉です。その意味で、このヨエル書のテキストは、原始キリスト教を生きた人々にとって、たいへん重要なものでした。そこで今日は、使徒言行録からヨエル書を読むのではなく、まずはヨエル書そのものにとりくみ、最後に少しだけ使徒言行録に戻ってこようと思います。
II
預言者ヨエルの活動した年代とその時代背景については、預言書そのものの中に、はっきりとした手がかりがありません。多くの学者たちは、紀元前4世紀の初め頃、つまりペルシア時代のど真ん中であったろうと推定しています。いわゆるバビロン捕囚から解放されて後、神殿が再建されたのが紀元前6世紀の後半ですので、それからすでに150年近くが経過しています。ペルシア時代のユダヤ民族は、再建されたエルサレム神殿を中心とする祭儀共同体として、帝国の中で存続を許されていました。内政を指導したのは祭司団と長老たち、外側に向かって民族を代表するのは大祭司でした。王はもういません。この時代のユダヤ教社会は、ペルシア帝国の寛容な宗教政策のおかげで、政治的にも安定した時期が長く続き、経済的にも繁栄しました。
もちろんそのような時代にも、自然災害がこの地域を襲うことはあったようです。ヨエル書の冒頭には、蝗の被害について言及があります。それなりに大きな被害だったのでしょう。次のように書いてあります(ヨエ1,4)。
かみ食らういなごの残したものを
移住するいなごが食らい
移住するいなごの残したものを
若いいなごが食らい
若いいなごの残したものを
食い荒らすいなごが食らった。
蝗(いなご)の大群が大波のように何度も押し寄せて、農作物に大きな打撃を与えたようすが伝わってきます。現代のイスラエルでも、ときおり蝗の被害が深刻な社会問題になると、当地に留学中の日本人学生から聞いたことがあります。そして預言者ヨエルは、蝗の襲来を、敵軍による攻撃を予告するものと受け止めました(1,6)。
一つの民がわたしの国に攻め上ってきた。
強大で数知れない民が。
その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。
わたしのぶどうの木を荒らし
わたしのいちじくの木を引き裂き
皮を引きはがし、枝を白くして投げ捨てた。
そしてヨエルは、この軍事攻撃がもたらすであろう破壊を、イスラエルの神の行為と結びつけます(1,15)。
ああ、恐るべき日よ
主の日が近づく。
全能者による破滅の日が来る。
その上でヨエルは、破滅を逃れるために、祭司団と長老議会に対して民の嘆きの儀礼を行うよう(1,14)、また民の各人は悔改めを行うよう(2,13-14)求めます。以上が、ごく大まかなヨエル書の時代背景と預言者の主張です。
III
平和で安定した時代に、経済的にも繁栄した社会を突然大きな自然災害が襲うという状況は、私たちも知っています。去年は、日本を含む東アジアの各地で、地震や大津波、また台風が大きな被害を引き起こしました。興味深いのは、そのような状況を背景にしつつ、私たちのテキストで、神が「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言っていることです(3,1)。この発言は、これまでは、必ずしもすべての人に神の霊が注がれていたわけではなかったことを暗示しているようです。つまり一見すると繁栄し、安定した社会にあっても、そこには「霊の欠如」「精神の欠如」とも言うべき状況が生じうるのです。
「精神の欠如」は、現代社会では大きな問題です。それは、なにも非倫理的な生活を送る人々や、人に危害を加えるような犯罪に走る人々にだけ見られる現象ではありません。むしろ社会を支える一般市民や、社会で指導的な立場にある人たちにおける「霊の欠如」の方がより深刻です。私たちが、プライベートで小さな空間に引きこもりがちであるのは、社会の進むべき方向性についてヴィジョンを描くためのファンタジーが欠けているからかも知れません。あるいは私たちが従来のやり方を変えようとせず、あらゆる変化に対して懐疑的になりがちであるなら、それは未来や人生に対する勇気が欠如しているからではないでしょうか。あるいは私たちの社会は、弱い立場にある人々に極めて冷淡です。それは、私たちが共感や正義を求める感情よりも、無関心や競争心の方を優先する生き方をしているからではないでしょうか。こうして「霊の欠如」は、閉じられた自己愛、事なかれ主義、偏狭さ、無関心などに現われます。霊の欠如した社会は、なんだか寒々として喜びがなく、ユーモアにもかけています。
これに対して「神の霊」とは、世界を生み出し、命を与え、人を生かし、新しい状況を作り出し、イエスを復活させる活ける神の創造的な力そのものです。ですからヨエルの神が、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言うとき(1節前半)、それは神が私たちに、新しくて力強い生を再び与えるという意味です。しかも老若男女の別なく、また男女の奴隷たちにも霊を注ぐと言うとき(1節後半)、それは「霊の民主化」とも言うべき出来事です。旧約聖書では、通常、神の霊は王や預言者などの特定の個人に注がれる賜物であったからです。そのとき「あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」(1節後半)。
私たちの教会は、来る9月に「私たちと憲法(9条、20条、24条)――キリスト者として私たちに何ができるか」という主題で教会カンファレンスを計画し、準備を進めています。私たちは小さな群れですけれども、ヨエルが預言した「霊の民主化」のプロセスに参加してゆきたいものだと思います。
IV
先ほど、ヨエルが蝗による農作物の被害を目の当たりにして、すでに150年続いている第二神殿を中心とした民族共同体の滅亡を予感したと言いました。考えてみると、「蝗」被害の現代版とも言えるような出来事が思い浮かびます。例えばインターネットを通じて瞬時に世界中をかけめぐるウィルス、銀行や保険会社が持っている個人情報の大量流出、そしてとりわけ米国同時多発テロ事件の後、あっという間に世界中に広まった暴力の容認と国民監視システムの強化などです。現代は、エネルギーや食糧および工業生産の原料などのさまざまな資源や巨大な資本が、国際的な商取引の対象となっています。私たちの生活は、すべてが複雑に絡み合った国際社会のネットワークの中で営まれています。それだけに、ほんの小さな出来事が大きな社会不安の引き金になりかねません。その危険性は、ヨエルの時代よりもはるかに大きい。私たちの時代にも、暗い滅びの予感を拭い去ることはできません。
古代イスラエルの預言者であったヨエルは、「蝗」被害から受け取った不吉な予感を、次のように表現しました。やがて神が、地上における「血と火」「煙の柱」を徴として与えるだろう(3節)、天上では「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」だろうと(4節)。その際に、ヨエルが「主の日」と言っていること、つまり世界規模の破壊をもたらすのがイスラエルの神であることに注意して下さい。「主の日」「ヤハウェの日」という表現は、ヤハウェだけが最終決定的な基準であるような場を意味します。そしてある学説によれば、元来この表象は、異民族との戦争における勝利を神の現われとして祝うこと、またそのような神の介入を将来も期待することと結びついていたらしいのです。ところがヨエルよりも350年ほど昔、預言者アモスは、この救済期待を逆転させてイスラエルに対する審判預言としました(アモ5,18)。
災いだ、主の日を待ち望む者は。
主の日はお前たちにとって何か。
それは闇であって、光ではない。
アモス以降、多くのイスラエル預言者が、「主の日」というイメージを審判の主題との関連で用いました。審判の対象はイスラエル民族である場合もあれば、とりわけバビロン捕囚の後は、それが周辺の諸民族にまで拡大されました。ヨエルも、この伝統の中に立っています。こうして聖書の預言者たちは、軍事力にものを言わせて「私たちは勝利した」と思い込んでいるあらゆる人々に対して、今も警告を発しているのだと思います。
V
ヨエルの暗い直観は、ユダヤ教神殿共同体の庇護者であるペルシア帝国の崩壊という意味であれば、約70年後に、アレクサンドロス大王の東方遠征によって現実となりました。そのとき蝗の大群のようにパレスチナを通過したギリシア軍によって、周辺のたくさんの都市が壊滅的な打撃を受けました。エルサレムが戦火を免れたのは、巧みな外交手腕によるものでした。
その意味では、「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」(5節)というヨエルの言葉は、たしかに成就したように見えます。しかも私たちのテキストに直結する4章を読むと、「主の日」の裁きが周辺の諸民族に対するものであり(例えば4,2)、エルサレムにとっては救済と回復を意味したのです(例えば4,16)。しかしこれが、ペルシア時代の諸民族世界の狭間に生きた預言者ヨエルの期待した、新時代の預言・夢・幻のすべてだったのでしょうか。
VI
ここで使徒言行録に戻りたいと思います。最初にふれたように、使徒言行録は、ペンテコステの出来事をヨエル預言の成就と位置づけています。ところがその際に、ヨエルの言葉は、諸国民の運命に関してまったく別の意味に理解されています。なぜなら「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(5節)というヨエルの言葉は、使徒言行録の引用では、〈主イエス・キリストの御名を信じる者は、ユダヤ人も異邦人も皆、救われる〉という意味だからです。「主」とはキリストのこと、「皆」とはエルサレムの住民だけでなく、世界中の諸民族を含みます。「主の日」は、ヨエルのように「大いなる恐るべき日」(ヨエ3,4)ではなく、イエスの再臨に結び付けられて「偉大な輝かしい日」と形容されています(使2,20)。ですから「主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」というヨエルの言葉は(ヨエ3,4)、使徒言行録には引用されません。イエス・キリストの福音を聞く者が、エルサレムだけにいるわけではないからです。
社会が急速に多元化し国際化する一方で、国家主義と民族主義が再び急激に台頭しつつある現代日本に生きる私たちにとって、国籍や在留許可といった身分の違いや、老若男女の別なく注がれる神の霊に応えて、キリストの御名を呼ぶ者たちが社会にもたらす預言・夢・幻は、どのようなものでありうるでしょうか。
使徒言行録には「他の国々の言葉」で話し始めるというモチーフが現れます。皆さんの母語は何でしょうか。多くの方にとってそれは日本語です。しかし私たちの多くは、いわゆる標準語とは違って、生まれ育った郷里の「お国言葉」を話すことができます。さらに私たちの教会には、韓国語や中国語が母語の方も参加しておられます。日本語以外の言語が、ある程度自由に使える人も少なくありません。今では経済のグローバル化とともに、情報や物資だけでなく人も動きます。代々木上原の周辺には大勢の外国人が暮らしていますし、大企業に勤務すると、海外駐在による外国暮らしは家族の歴史の一部です。大学では大勢の留学生が学んでいます。職を求めて、また庇護を求めて日本にやってくる外国籍の人々がいます。国際結婚もまた、今では日常風景の一部です。
そんな時代ですので、生まれた場所で一生暮らすのが一番だと考える必要はもうありません。外国と日本を行き来し、複数の言語で作品を発表する作家たちも現われました。その一人である多和田葉子さんは、あるエッセイで次のように書いています(多和田葉子『エクソフォニー:母語の外へ出る旅』、岩波書店、28頁)。
どこへ行っても深く眠れる厚いまぶたと、いろいろな味の分かる舌と、どこへ行っても焦点を合わせることのできる複眼を持つこと[・・・]が大切なのではないか。あらかじめ用意されている共同体にはロクなものがない。暮らすということは、その場で、自分たちで、言葉の力を借りて、新しい共同体を作るということなのだと思いたい。
この発言は、グローバリゼイションという新しい「諸国民の時代」を生きる私たちが、神の霊に満たされて預言し、夢を見、また幻を語るためのよいヒントになると思います。「あらかじめ用意されている共同体にはロクなものがない」という発言は、「霊の欠如した共同体にはロクなものがない」と言い換えて理解したいと思います。とりわけ私が深く共感するのは、「その場で、自分たちで、言葉の力を借りて、新しい共同体を作る」という彼女の決意です。神が預言者ヨエルの口を通して「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と語ったのは、そして聖霊が原始キリスト教会に降臨したのは、そのような霊に溢れた個人が誕生するためではないでしょうか。未知の世界に対して開かれた精神、互いの違いを楽しむ余裕、個人を抑圧する悪に対する鋭敏な感覚、そして変化に対応する柔軟な現実感覚を兼ね備えた個人によって、共同体が創造されるためではなかったでしょうか。私たちは老いも若きも、女も男も、日本国籍の人もそうでない人も、ともに「その場で、自分たちで、言葉の力を借りて、新しい共同体を作る」努力を惜しまぬ者に、ヨエルの言葉を借りれば、神の創造的な働きに促されて、この諸国民の時代に預言と夢と幻をもたらす者になりたいと思います。