2005・4・24

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「幼子の口に讃美を」

村上 伸

イザヤ書12,1-6マタイ福音書21,12-17

 「イエスは神殿の境内に」(12節)入った。これは、紀元前520年頃に再建された「エルサレム第二神殿」のことである。マルコ福音書13章には、弟子の一人がこの神殿を見て、「先生、なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(1節)と感嘆したとあるが、ガリラヤから来た「お上りさん」の目には、さぞ素晴らしく、壮麗に映ったことであろう。だが、イエスはこの大伽藍の正体を見抜いていた。

 境内に入ったイエスは、たくさんの「売り買いをする人々」「両替人」が店(屋台)を出しているのを見た。過越祭が近づくこの時期、巡礼者も増え始めていたから、商人たちはチャンスと見たのであろう。

 巡礼者は、犠牲に捧げる動物を必要とする。羊、ヤギ、鳩などである。それらは無傷のものに限ると律法で決められていたから、彼らは普通、それらの動物を家から持って来ることはしない。途中で傷つく恐れもある。それに、傷ついた動物は祭司のところへ持って行って清めて貰わねばならない。時間も費用も余計にかかる。そこで、少し高くつくが、神殿当局の認可を受けた商人から「無傷」という保証つきの動物を神殿の前で買う。「鳩を売る者」とは、正式の免許を持つ商人のことであろう。「寅さん」のように縁日でペット用のヒヨコや子ウサギを売るフリーの売人ではない。

 では「両替人」とは何か? その頃、神殿での礼拝献金には「シェケル貨幣」を使う決まりになっていたが、その貨幣はもう流通していなかった。両替の必要がある。それを当て込んで、境内には両替人が待ち構えていたわけである。巧妙な仕組みだ!

 このことは、当時のユダヤ社会を支配していた「神殿体制」を象徴的に示している。もとより、祭儀や教育を通じて人々の精神的な支えになるのが神殿本来の務めである。しかし、それだけではなかった。それを超えて神殿は人々の暮らしに経済的基盤をも提供し、そのような仕方で社会生活に食い込み、それを支配していた。そこに様々な逸脱や腐敗が起こる素地があった。西洋のキリスト教国においてもよく似た事情があるし、日本でも有名な神社仏閣は同じような役割を果たしている。

 イエスがこのとき目にしたものは、神殿と商人たちとの密接な関係であった。「癒着」と言っては言い過ぎかもしれないが、神殿は商人たちのために便宜を図り、商人たちはその見返りに神殿の経済を潤すという関係。このような「持ちつ持たれつ」の関係が、いつのまにか神殿本来の在り方から逸脱していることに、祭司長も律法学者も気づいていない。ここに、イエスは「神殿体制」の問題を見たのである。

 だから、イエスは珍しく激しい行動を取る。彼は「売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」。むろん、イエスはこれのような行動によって零細な商人たちのささやかな商売を攻撃したわけではなかった。むしろ、神殿体制を批判したのである。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」イザヤ書56章7節)という旧約の聖句を引用して、「あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(13)と言ったのは、その意味である。

 この関連で、私は14節の言葉にも注目したいと思う。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄ってきたので、イエスはこれらの人々をいやされた」

 広く知られているように、モーセ律法は障碍者の祭司就任を厳重に禁じている。「障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない」(レビ記21章17節)。祭司になることを禁じただけではない。ダビデ以後、この律法は拡大解釈されて、障碍のある人々は「神殿に入ってはならない、と言われるようになった」(サムエル記下5章8節)。つまり、障碍のある人や重い皮膚病の人は、「汚れた者」として共同体から排除されたのである。これらの人々を排除することによって成り立っていたのが、神殿体制である。これが、神殿の持つ本質的な問題であった。

 このことを果敢に批判したのが、イエスである。弱い立場にある人々を排除するような社会秩序は、神の望み給う秩序ではない。その上にヌクヌクと安住しているような神殿は、もはや「祈りの家」とは言えない。それは「強盗の巣」である。そうイエスは考える。それに対する渾身の抗議が、あの一見乱暴な行為になったのであった。

 だからこそ、律法によって神殿に入ることを禁じられた人々、目の見えない人や足の不自由な人たちが、イエスのそばに寄って来たのだ。この方のところに自分たちの居場所がある! そして、イエスは彼らを温かく迎えて癒やした。この振る舞い自体、苦しむ人たちを排除する「神殿体制」に対する根本的な批判なのである。そして、この批判の故に、イエスは遂には殺されたのであった。

 最後に、排除された側に「子供たち」もいたということに注目したい。その日、障碍者に対して「イエスがなさった不思議な業を」見た祭司長や律法学者たちは、それが自分たちの権威に対する重大な挑戦であると感じて苛立っていた。そこへ、「境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言う」(15)声が聞こえて来る。それが彼らの逆鱗に触れた。子供たちまでイエスの側についたのか! そこで、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」(16)とイエスに食ってかかった。

 ここには、当時の「神殿体制」の問題が示されている。障碍のある人、つまり、社会的弱者を排除しようとする社会は、民族の将来である子供たちに対しても敵対的になる、ということである。子供たちに対して優しくない社会は、将来を持たない。

 イエスは、神は「幼子、乳飲み子の口によって」(詩8編3節)真に讃美される、と言った。このことには深い意味がある。



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