2004・1・18

「罪を告白した者の再生」

村上 伸

アモス書 5,21−24ルカ福音書5,1−11

 ここには、生き生きとした情景描写がある。―― イエスがゲネサレト湖畔に立っていると、彼の言葉を聞こうとして群衆がその周りに押し寄せて来た。岸辺には二艘の船が寄せてあり、その傍では収穫がないまま帰ってきた漁師たちが網を洗っていた。イエスは、そのうちの一艘シモン・ペトロの船に乗り、岸から少し漕ぎ出すように頼む。このようにいくらかの距離を置くことで、大勢の群衆にモミクチャにされず、しかも声は皆に届いたであろう。船は格好の説教壇になった。

 話し終わると、イエスはペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろしなさい」(4)と言う。これはプロの漁師としては納得できない指示だから、ペトロは初め渋っていたが、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5)と言って指示通りにする。すると、思ってもみなかった大漁だった! その時、ペトロは、意外な好結果を目の前にして舞い上がっただろうか? 否、イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」(8)と告白したのである。

 昨年の9月、我々の教会を訪問したシュテイーア牧師も今日と同じテキストによって説教した。その中で、この場面を単なる「観客」として眺めるだけではいけない、イエスによって「語りかけられる存在」として、つまり、「み言葉を聴く者」として読むべきだと言った。その通りである。我々もイエスの言葉を聞かねばならない。

 ペトロは、「お言葉ですから…」と言った。この「お言葉」とは、単に「沖に漕ぎ出して網を降ろしなさい」という指示だけを意味しているのではないだろう。その頃イエスが精魂込めて人々に語っていた言葉の全体がここでも迫ってきた、と取るべきではないか。たとえば、シュテイーア牧師も引用したように、この後に出て来る「幸いなるかな」という言葉(ルカ6,20-23)など。

 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」。このように力強い・慰めに満ちた言葉を語る方として、主イエスはペトロの前に現れたのである。このことが重要である。

 「夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」(5)と、人生の現実に落胆していたペトロたちは、このように力強い・慰めに満ちた言葉を語る方の現実的な力に触れたのだ。それは単なる「マジック」ではない。現実に打ちひしがれたものを再起させる愛の力である。それが、本当には信じていなかったペトロの在りようも暴露して、罪の告白に導いたのである。

 昨年秋から、私は説教の主題に「罪責告白」を取り上げて来た。一体、「罪を認識する」とか、「罪を告白する」という行為はどのようにして起こるのか?

 ペトロの場合、それはひとえに「イエスとの出会い」によって起こった。力ある・真実な言葉を語る方と出会って魂を震わせられるという経験。また、その圧倒的な愛に触れて深く感動するという経験。この「出会い」が罪の認識と告白に導いたのであって、「他人から追及されて」ということでは全くなかった。我々の生活の中でも、それはしばしば体験されることである。

 「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(略称・戦責告白)に次のような一節がある。「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい批判をなすべきでありました。しかるにわたしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外に向かって声明いたしました。まことにわたしどもの祖国が罪を犯したとき、わたしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主のゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからゆるしを請う次第であります」。

 これを書いたのは、我々の多くがその指導を受けた鈴木正久牧師だが、彼がよく我々に語ってくれた話に「朝鮮人の飴売り」というのがある。彼のお父さんが病気で寝ていた頃、貧しい身なりの朝鮮人が飴を売りに来た。しかし、彼は玄関先から次の部屋にお父さんが寝ていることに気づくと、「オトウサン、ビョーキカ?」と言い、先生の手にいくらかの飴を掴ませて行ってしまった。先生は奥にいたお母さんから何がしかのお金をもぎ取って後を追った。見つからなかったが、この朝鮮の人の真実が心を深く打ったという。こうした体験も、あの告白の背後にあったのではないか。

 「罪責告白」は、最近よく言われるような「自虐」とは何の関係もない。平然と他国の人々を苦しめていた自分たちの国と教会の罪を告白せざるを得ないのは、このような真実な人との出会いによる。また、それを通じて、聖なる神と、深い愛に満ちた主イエスと出会うことによる。「自虐」で罪を告白することはできない。これは自発的な悔い改めなのである。そして、罪責を告白したペトロにこそ、新しい使命が与えられた。これも、聖書の重要なメッセージの一つである。自らの罪を正確に認識し、誠実に告白した者だけが再び人間らしく生き始める。



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