敬愛する皆さん、
先ず、遠いドイツ、私が生活し仕事をしているメクレンブルク州教会からのご挨拶を皆さんにお伝えし、使徒パウロがローマの教会に送った挨拶の言葉をそのまま申し上げます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ローマ1,7)。
日本とドイツは遠く離れていますし、両国の歴史や文化、言葉はずいぶん違いますが、にもかかわらず同じ聖書のメッセージ、同じイエス・キリストの福音、同じ信仰が私たちを結びつけています。信仰生活における似たような経験も、私たちを互いに結んではいないでしょうか? このことを知るためには、私たちは互いに訪問し合い、語り合い、質問し合うということをしなければなりません。この数日で、私はそのことを体験しました。
ドイツ教会代表団のメンバーとして今回の「日独教会協議会」に参加できたことは、私にとっては神の大きな贈り物でした。こういう風に皆さんの教会を訪ねることもできたわけですから。ところで、私は東ドイツの教会を代表してこの代表団に入りました。この教会は、90年代の始めに東欧圏が政治的・経済的に行き詰まるまでは、東西に分断されたドイツの社会主義的な陣営に属していました。ですから、キリスト者が少数者であるという状況は私たちにも馴染みのもので、それは今日に至るまで変わりません。変革後の現在、私たちは政治的・社会的には自由になりましたが、にもかかわらず少数者であるという実態はむしろ益々際立って来ました。確かに、日本とは違ってドイツの教会の歴史は国民教会的な伝統によって特色づけられていますが、それも次第に無くなりつつある。ドイツの東部では、私たちは今や大多数の人が無神論者であるような社会で暮らしています。(日本の)皆さんは、殆どの人が他の宗教に属するような社会における少数者です。私たちはドイツで、あなたがたはこの日本で、同じく少数者なのです。
さて、私は今日の説教テキストとしてルカ福音書から一つの箇所を選びました。この箇所は独特な仕方で信仰の経験について語っています。ペトロの漁の話です。
この物語は、職業生活、または日常生活の一齣ですが、神を経験した話としても読めます。ペトロという一人の人物が使徒として召されたという所に特に重点がありますが、イエス・キリストの福音に心惹かれる人なら誰にでにも通用する話です。一つ一つの場面が信仰上の経験について語っていて、そこで私たちは見物人になったり、聴く者になったり、語りかけられた存在になったりします。
語られる言葉から何かを聴き取ろうとはせずに、ここに描かれた出来事を単に見物人として観察した人には、次のような場面が見えたことでしょう。朝、漁師たちが船に乗って岸辺に帰ってくる。収穫は何もなかった。網を洗って片づける。そこへ、群衆がイエスの話を聞こうとして押し寄せる。
次に見物人は、イエスが漁師たちの方に向き直る様子を見たかもしれません。彼らは自分たちのボートを再び水に浮かべ、イエスはその中に乗り込んで座る。彼は岸辺に集まった人々に向かって話しかける。その後で漁師たちは突然、彼らの網を再び引っ張り出し、沖へ向かって漕ぎ出す。漁のことがいくらかでも分かっている見物人なら、ここでひどく失望したことでしょう。遥か沖の水深の深い所で、しかもこんな時刻に網を入れるなど、正気の沙汰じゃない! もっと分からないのは、本当に大漁だったことです。沢山の魚を水揚げするために、漁師たちはもう一艘の船を呼び寄せる。恐らく見物人には、ペトロがイエスの前に膝まづいたり、もう一度立ち上がったりする様子も見えたでしょう。その後で漁師たちは岸辺に帰って来て、魚や網や船の後始末をする。最後に彼らはイエスと一緒に立ち去る。だが、すべては元のままです。
聴く者の場合はどうでしょうか? 聴く者は、最初、イエスの話を聞いていた群衆の中にいた筈です。ルカにとっては、この点を強調することが重要でした。しかし、イエスは「神の言葉を」説教したというが、ルカはその説教の内容を一切記していません。ルカ福音書では、それはこの箇所の前と後に出て来るのです。例えば「祝福論」の中で圧縮され・一つにまとめられた言葉がそれです。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(ルカ 6,20-22)。
ペトロの漁との関連でいえば、聴く者はイエスとペトロの間に交わされた二回の短い会話を聞きます。これらの会話が、そこで起こっていることを外からだけでなく、初めて内側から解明するのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4)。このイエスの要求は、漁師たちの前夜の経験に逆らうものです。だからペトロは最初それに抗議しました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5)。「もう一度出て行け」などというのは、土台無理な話です。労働し苦労したのに、目に見える結果など何もなかった。要するに不成功だった。そんなことを繰り返しても無駄なことです。
でも、ペトロはその後で、次のような短い言葉を発します。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5)。彼と仲間は、このイエスの無理な要求に自らを委ねる。そんなことをしてどうなるものか。それは、差し当たりは分かりません。だが、ルカは続けてこう報告しています。「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(6)。
この物語は、イエスの言葉に自らを委ねて彼に信頼するとき何が起こるかということを、先取りして象徴的に示したものです。人は豊かに祝福されるのです。
第二の短い対話は、もっと深い層を開いてみせます。ペトロはイエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8)と言う。しかし、イエスは彼に答える。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10)。
敬愛する皆さん、これは驚くべきことです。自分が罪人だという意識は祝福が来る瞬間に止みますが、これは挫折した時の認識ではない。無駄に働き・労苦したという徒労感でもありません。自分が罪深い人間だという自己認識は、たとえば「自分にはあまりうまくやれなかった、あるいは全然成功しなかった」といった嘆きとか、自分たちのすることが無駄であったという愚痴めいた言い方と同じに扱うことはできません。罪の認識は、一見成功したと思われる瞬間、(この場合は大漁の瞬間)、自分たちが思いがけず恵まれたと感ずるその瞬間に起こるのです。敬愛する皆さん、ここでイエス・キリストの秘密が顕れる。圧倒的な形で、慈しみを贈る方として自らを現します。それは、神が聖なるお方であることを気づかせる。そして、神なしの生活がどのようなものであるか、信頼や信仰、希望を持たない生活がどのようなものであるかという認識へと導くのです。聖書が「罪」という概念を使うとき、それは第一義的には神なしの生活を意味しているのです。
イエスは、これから起こることを信じたペトロに、「あなたは人間をとる」と言いました。
多くの人々が、世界中にあるイエス・キリストの教会にやって来るという約束です。繰り返し繰り返し、すべての場所で、そしてあらゆる国々・あらゆる民族からです。この約束は、いつまでも通用するものです。
敬愛する皆さん、ただ、この「漁」のイメージには限界もあります。魚をとるのは、食糧として役立てるためです。皆さんのお国は、何百年も前から魚をとったり美味しく料理したりすることにかけてはマイスター(名人)でした。しかし、「人間をとる」のは、不自由や心配事や、さまざまな種類の網にがんじがらめにされている状態からまさしく自由にするためなのです。この解放のメッセージは、先ず私たち自身に当てはまります。「他の人々もイエスに従う生活に呼び出されている」と語っても、それが受け容れられるかどうかは分からない。だが、それは神の御手に委ねましょう。私たちは、ただそのための努力をするだけでいい。祝福して下さるのは神です。
こうして、私たちは単なる見物人でも聴く者でもなく、語りかけられる存在なのです。私たちの多くは、「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言わざるを得なかったような経験をしているでしょう。真面目に働いて苦労しても、望むような結果を得られないことはしばしばです。それは特に個人的な生活や、家族や隣近所と仲良くするための努力、そして職業生活に当てはまります。しかし今日では、これらは特に教会の中で私たちに出会う経験でもあります。あの(90年の)政治的変革の後で誰もがドイツの教会に新しい出発を期待しましたが、それは一向に起こりませんでした。霊的・精神的な力は、確信に満ちて仕事に取りかかる前に萎えてしまったように見えます。それだけに一層、神の言葉を信じて行動することが重要になるでしょう。お言葉ですから網を降ろしてみましょう。そのように真実を込めて、信頼をもって、私たちに贈られた賜物と可能性を用いるべきです。
日独教会協議会は「霊性を求めて」という主題で行われましたが、その会期中、共通の話題は「互いに注意深くあること、相手を勇気づけることにどうしたら寄与できるだろうか?」ということであり、「どのようにしてそれを始めればいいか?」ということでした。しかし、「たった今から」、私たちはそれをしたいと思います。神の祝福が私たちの上にありますように。アーメン。