2018.05.20

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「神の霊の降臨」

秋葉正二

ヨエル書3,1-5ヨハネ福音書14,15-20

 私の母教会の牧師は神学校で旧約を専攻した牧師でした。毎週「いのちのいずみ」という数ページにわたる週報を最後まで編集・発行され、私をはじめとして多くの信徒の皆さんがそこからいろいろなことを学びました。ある時、小預言書について数ヶ月間、一文書ずつその構成や内容について要領よくまとめたものを掲載してくれました。私がヨエル書について「興味しろい文書だなあ」と思った最初の出会いです。なかでも1章のいなごの飛来についての記述はとりわけ印象的でした。

 1章の記事は飛来というよりは文字通りバッタの大群の来襲です。日本でもいなごの被害は昔からありますが、大陸のそれは規模が違います。エジプトやパレスチナでは一面黒雲のように空を覆ういなごの大群が押し寄せると、すべて地上の農作物などの草本類は短時間で食い荒らされて、それが去った後には何も残らなかったということです。その規模は大きなものになると100キロ以上の長さと幅になるといいますから、想像がつきません。それゆえ、飛ぶいなご、飛蝗と呼ばれバッタの大移動は、現代でこそ殺虫剤の普及でかなり防げるようになったようですが、昔の農民にとってはまことに厄介な存在でした。パレスチナならば、ぶどうもオリーブも大麦も小麦も全滅状態になったのですから、飢饉の引き金でもありました。私たちにはその光景がピンと来ないのですが、飛蝗は中央アジア、中東、北アフリカ、北米など全世界的な大害虫です。中国でも相当厄介だったらしく、たびたび歴史小説にも出てきます。

 とにかく飛蝗の来襲はどの地域にせよ飢饉・飢餓を引き起こす深刻な事態の引き金でした。そこで当時のイスラエルの人々は、いなごの大群来襲の出来事に神さまの働きを見たのです。つまり、主の日の到来という終末の審判をそこに重ねたのです。のみならず、時には外国の軍隊が侵略者として出現することもあったわけですから、終末が近づくという切迫感と、いなごの大群と、外国の軍隊の侵略といったイメージが重複して、過去と未来が交錯する独特の信仰的緊張状態が生まれました。そのような当時の状況をまず理解しておく必要があります。

 さて預言者ヨエルは、2章前半でいなごの来襲を神さまの怒りと捉えた後、後半では一転して、神さまは恵みに満ち、憐れみ深いお方なのだから今こそその主に立ち帰れと悔い改めを勧めています。そこでは「食い荒らしたいなごの損害を償うこと」と、「北からの敵を滅ぼすこと」が表裏一体のこととして語られています。こうして「主の民」の恥がすすがれて、イスラエルの民は「主の御名」をほめたたえることができるのだというのが2章の結びです。

 さてきょうのテキスト3章に入りますと、まず「その後」と記されています。「その後」というのは、大転換がなされた後という意味で、大転換とは2章にあるように、先ず神の声と御言葉によって大軍をも滅ぼしたことの確認です。そのような力がある素晴らしい神さまなので、ご自分が愛された民を滅ぼすことなどはなさらない、滅ぼすどころか新しい救いを与えるというのです。そうした神さまの現臨を象徴するように、神さまはすべての人に霊を注がれ、それによって人々は預言し、夢を見、幻を見るということが1節で述べられます。

 このことは新約聖書においてメシア・イエスの姿を示しながら確認されていきます。使徒言行録2章は聖霊降臨の記事ですが、その時ペトロが11人の使徒と一緒に立ち上がって声を張り上げて話し始めています。有名なペトロの説教のくだりです。なんとその折、ペトロはこのヨエル書の3章を引用して語っているのです。新しいキリスト教誕生を裏付けるような大胆な表現が既にヨエル3章には確かにありました。メシア到来の時代にはすべての人に霊が注がれるとイザヤ(32,15等)やエゼキエル(36,27等)は預言しましたが、ヨエルもそれを追認するように神の霊が注がれることを語っています。

 この霊と訳されている言葉は風も意味しますが、神さまの息であり力でもあります。かつて神さまは創造の際、ご自身の息を吹き込まれてこの世の存在物一切を創造されましたが、その時人間には特別の位置が与えられました。旧約の預言者の場合、彼らは神に特別に選ばれて新しい能力を付与されて活動しました。それは預言者と共に神さまが生きるという意味でもあります。神の霊はイスラエルの歴史と伝統の中で、特別な選びと好意を受けた者にだけ与えられたというのが旧約の世界なのです。旧約の神の霊の注ぎは言うなれば終末の時代の救いのしるしであり、神の恵みでした。その終末の時、終わりの時が今や使徒言行録の中で、聖霊の注ぎによって教会が誕生することへと飛躍するのです。ヨエルが「すべての人に」霊が注がれると言ったことには大きな意味があります。

 ここでの「人」というのは、弱さや不完全の意味も含めた霊の対立概念です。ヘブライ語では「すべての肉」の意味です。それまでの預言者のように神さまの霊を受けた特定の偉人だけに限定される「人」ではありません。イスラエルの「すべての人」なのです。 エゼキエル流に表現するならば、『わが霊をイスラエルの家に注ぐ』(エゼキエル39,29) です。それはイスラエルのすべての人の心を一新する神の霊の働きということでしょう。『あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る』という言葉は、なんと希望に溢れた言回しだろうかと思います。神さまの霊は、奴隷となっている男女にも注がれています。

 ヨエル書の成立は捕囚後の紀元前5世紀中頃と見られていますが、これはペルシャ帝国がまだまだ元気だった時代です。イスラエルはペルシャによって捕囚から解放されたものの、ペルシャ帝国の版図は広大なもので、メディア・リディア・新バビロニアの3国を滅ぼした後、エジプトまで制服してオリエント世界を統一していたのですから、その権力は強大なものでした。イスラエルの民はエルサレムに帰還したものの、何をするにもペルシャの指図を仰がねばなりませんでした。

 実はペルシャ時代の末期にフェニキア人やペリシテ人が『ユダとエルサレムの人々をギリシャ人に売った』ことが、この後の4章6節に出てきます。当然そうしたことも起こったでしょう。3,4節は神の霊の注ぎは終末の時代の救いのしるしであったことを表現していますが、それは神さまの恵みでもありました。この神さまの霊の注ぎに関して、対象を息子・娘・若者・老人とすべての人に広げたことはヨエルの大きな功績ですが、彼の場合それはあくまでもイスラエルの人に限られていました。

 イエス・キリストの活動はその限られた世界を解放してしまったのです。ペトロは生粋のユダヤ人ですから、旧約のヨエルの世界に、やがてこの世を照らす光が輝くきっかけを見出したのです。それでもさすがに彼は旧約の世界の限界にも気づいていたようです。ですからヨエル書3章を引用するにはしましたが、5節の最後の一節、『シオンの山、エルサレムには逃れ場があり云々』の部分を省いています。旧約の世界では確かに主に信頼し、御名を呼ぶ者は神の裁きの試練の中で逃れ場を見出し、救われて、最後の時にエルサレムは選びの場としての神の永遠の都(詩編46,1)になるのですが、その場合エルサレムという固有名詞は、固定的にこの地上のある土地を意味しているわけではないと私は思っています。

 今エルサレムではアメリカ合衆国がその大使館移転を多くの国々の反対やパレスチナ人の抗議を無視するように強行していますが、そこにはエルサレムという象徴的な地名に縛られて自由を失っている人たちの姿を見ているような気がします。第二次世界大戦で、あれほどの苦難に遭遇したユダヤ人の人たちが、もう少しその体験を生かすように人権を重視してくださって、エルサレムという目に見えるこの世の土地に縛られずに、難民を生み出してしまった現代イスラエル共和国の建国の強引さを考えてくれたらよいのに、パレスチナの人々への愛情ある視点を示してくれたらよいのに、と私は思いました。

 メシアであるイエスさまの示された新しい世界が、自らが属していたイスラエルという世界からはるかに自由に大きく羽ばたき始めていたことをペトロはきっと聖霊降臨の場で自覚したのだと思います。聖霊は風のように、息のように自由に私たちが生きる世界に行き来します。それを妨げることは誰にもできません。イエスさまが示された如く、聖霊を汚す者はゆるされないのです。私たちがイエスさまから聖霊を送る約束を頂いていることは、それが私たちが生きることの原点であることをはっきり示しています。きょうは聖霊降臨日・ペンテコステです。神さまに私たちが愛されていることを感謝をもって受けとめたいと思います。祈ります。


 
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