2004・4・18

「必ず実現する約束」

村上 伸

イザヤ書35,1−10ルカ福音書24,44−49

 先ず、復活されたイエスが語られた言葉に注目したい。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」44)。

 「モーセの律法」と「預言者の書」と「詩編」。このように三つ並べて言う場合は、旧約聖書の全体を指すのである。だが、それが「わたし(=イエス・キリスト)について書いてある」というのはどういう意味だろうか?

 イエスが旧約聖書を重んじたことは知られている。だが、旧約聖書はイエスよりもずっと前の時代に書かれたものだ。しかも、内容から見てイエスにそぐわないと思われる考えがその中にはたくさんある。たとえば、ユダヤ民族が「神に選ばれた」ということが書いてある。謙虚な自己理解としてなら分かるが、それは時に他民族に対する傲慢な態度(選民意識)につながったし、戦争や大量殺戮を正当化する根拠にもなった。シャロン首相やブッシュ大統領だったら、このような考えを喜ぶかもしれないが、イエスは、そんなことは考えてもいなかったし、もちろん教えもしなかった。それなのに、旧約聖書が「わたしについて書いている」とイエスは言う。これはどういうわけか? そのことを少し検証してみたい。

 先ず、「モーセの律法」。これは「十戒」を中心とする戒めの総体を指す。その中には厳し過ぎるものも、些細に過ぎるものもあるが、イエスはそれらを何もかも絶対化したりはせず、その中から最も重要な「愛」の掟を選び出した(マタイ22,37−40)。すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、「隣人を自分自身のように愛しなさい」の二つである。そして彼は、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言い、「愛」こそがすべての律法の中心であることを明らかにした。イエスが、モーセの律法は「わたしについて書いている」と言ったのは、その意味である。

 「預言者の書」についてはどうか? ルカ福音書には、イエスが生まれ故郷のナザレで初めて説教された時のことを報告しているが(4,16以下)、彼はその際、預言者イザヤの言葉を引用した。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」イザヤ書61,1)。イエスは、このように人々を解放するのが預言者の使命であり、自らの使命でもあると受け止めていた。この意味で預言者の書も「イエスについて書いている」のである。

 「詩編」についても同様である。そこには、恨みや憎しみのこもった詩も、復讐の詩もある。だが、イエスが最後に十字架の上で、詩編22編「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉をもって祈ったことからも分かるように、彼は人間のあらゆる憎悪や復讐心を超えて、最後にはただ、神に自らを委ねたのである。この意味で、詩編もまた「イエスについて書いている」。

 だから、「モーセの律法」と「預言者の書」と「詩編」、つまり旧約聖書の全体がイエスについて語っている、というのは正しい。旧約聖書の全体は、イエスのような方がこの世界の中にいつか来ることを待望していたのだ。ルカが今日の所で「必ずすべて実現する」(44)と言うのは、この待望に関している。「愛」と「解放」と「恩讐を超えた祈り」という旧約聖書の待望が、イエスにおいて、とくに彼の復活によって実現したということである。

 イラクで人質に取られた三人が、そして、その後拘束された二人の日本人ジャーナリストも昨日解放された! もしかしたら殺されるのではないかと心配された彼らが、死の恐怖から解き放たれた。我々は単純にこのことを喜ぶ。だが、これで問題が根本的に解決したわけではない。まだ拘束されている各国の人々がいるし、中には殺された人もいる。

 武装勢力のこうしたやり方は確かに悪い。しかし、彼らだけを責めるわけには行かないだろう。米軍のファルージャ攻撃によってイラク人の死者は既に600人以上に達しているのである。その上、彼らは何度もモスクを攻撃してイスラム教徒を激高させ、シーア派の宗教指導者に対する殺害命令を出して火に油を注ぐようなことを重ねている。どんなことがあっても武力で反対勢力を押しつぶす、というのである。しかも、この状況の中で、米国はイスラエルへの全面的支持という姿勢を明確に打ち出した。これでは対立は激化する一方だ。国連に主導権を渡すという昨日のブッシュ大統領の演説もどこまで本気か分からない。そして日本政府は、このようなアメリカに追随しているのである。今後もあらゆることが起こるであろう。

 憎しみと暴力が止まらない。「殺す」という言葉が日常的に使われている。人道支援という名目で派遣された自衛隊も戦闘服を着、鉄兜をかぶり、重武装している。ストリート・チルドレンのような小さな「いのち」を守ろうという善意が「軽はずみ」・「非常識」として非難される。なんという世界であろう。ここでは「死」が支配しているというほかはない。

 だが、イエスは言う。「メシアは苦しみを受け、三日目に復活する」(46)。「死」に支配された世界の中で、「死」の苦しみを突き抜けて「いのち」が勝利する、というのだ。イエスの復活において始まったのは、この約束が必ず実現するという歩みなのだ。



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