2022.02.27

音声を聞く

「癒し手となる力の授与」(マタイによる福音書第二説教集・第2回講解)

陶山義雄

サムエル記上 3:10〜21マタイによる福音書 10:1〜4

 前回は主イエスの働きをマタイ記者が3つに要約した所を見て参りました。それは、主の働きを (1)教えとして、(2)福音を宣べ伝えることとして、そして (3)病を癒す働きとして9章までを総括した所でした。英語で言えば、Teaching, Preaching, Healingとなります。これら3つの働きは英語によると、とても簡明で、覚え易く聞こえます。

 これよりその働きが弟子たちに受け継がれようとしています。マタイ記者は先に記されたマルコ福音書の「12弟子の選定と派遣」の物語を伝承から受け取りながら、その前置きとして、本日のテキスト・冒頭の10章1節を置いています。それは、イエスによる3つの働きの中でも、「癒しの勤め」を頂点に掲げ、その働きを弟子たちに授ける、力の授与式にまで改め、「弟子選定と派遣の物語」を、マタイでは「12弟子への使徒職伝授と派遣」の物語へと高めるためでした。

 イエスに従い、求道の道を歩もうとする私達が、与かることの出来る、云わば、頂点にあるのは「救い」であり「癒し、癒されること」であれば、マタイ記者が3つの中でも、癒しの力をもって弟子派遣と結び付けている理由も良く分かります。主の教えや宣教が割愛された訳ではありません。教えも宣教も、癒しと救いの働きに含まれていることが良く分かります。

 私は生れ落ちるなり、両親が信徒であったので、この教会の前身である上原教会で育てられて今に至っています。子供讃美歌の「主に従い行くは」が何時も心の中で鳴り響くような生活でした。今も変わりはありません。この歌が大人の讃美歌21(―507番)に収録されたことを何より嬉しく思っています。この讃美歌には、主に従い行く私達の健やかに生きる姿が謳われています。同時に、それは、病める姿から贖われて行く有様が織り込まれています:

  1.  主に従い行くは いかに喜ばしき 心の空晴れて 光はてるよ
    (おりかえし) み跡を踏みつつ 共に進まん み跡を踏みつつ 歌いて進まん
  2.  主に従い行くは いかに幸いなる 悪しき思い捨てて 心は澄むよ
  3.  主に従い行くは いかに心つよき おそれの陰消えて 力は増すよ

 普段、生活の中で、私達は屡々心の空が曇り、涙の雨を流すことがあります。また、自分を他の人と較べて、何と哀れで不幸な人間であるか、嘆くこともあります。また、心が折れて意気消沈することもあります。そのように心や体が病める状態に陥った時、この子供讃美歌に歌われている救いと癒しの道に与かって、私はその都度、救われて参りました。本当に肉体的な病いに陥った時にも(1953年6月19日の大喀血と2年間の病床生活で)、救いの手を差し伸べて下さったのは上原教会でした(毎週のように問安して下さった赤岩先生と教会員)。そのお陰もあって、私は教会へ行けるようになった1954年の復活節に信仰告白へと導かれました。当初、この礼拝で「主に従うことは」(21−507番)を歌いたく思いましたが、この礼拝では288番(恵みに輝き愛に香る、我が主のみ跡の麗しさよ)を選ばせて頂きました。この讃美歌も主の御あとに従う私達の生き方が謳われているからです。癒しに関わる内容は2節以下の、どの箇所でも歌われておりますが、結びの5節が殊に心に滲みる内容です:「わが主のみ心、心となし、敵をさえ友と 見させたまえ。」私達は、誰もが主の癒しの力に与からなければ、到達することのできない生き方ではないでしょうか。マタイ福音書記者は「12弟子の召命と派遣」の物語に先立って、主による癒しの力の伝授をここに掲げているのです。

 そして10章2節より、いよいよ12弟子の紹介に入ります。この部分は伝承から受けた内容なので、他福音書と較べても殆ど変わりありません。しかし、2箇所ほどマタイ記者は追加や変更をしています。12弟子の名前を変えることはしておりません。本日はこれら12名の紹介や説明をすることは他の機会に譲り、マタイ記者の関心に注目しながら進めて参りたく思います。

 先ず、2節の冒頭で12弟子ではなく、12使徒と呼んでいる所に注目しなければなりません。マタイとその教会にとってはイエスの弟子達は凡そ半世紀前に活躍した尊敬すべき教会の指導者達でありました。彼らを使徒と云う称号で呼ぶことはマタイ記者にとって、特別な意味を持っています。その事が良く分かるのは16章18節以下に記されている「ペトロの信仰告白」であります。このことは後で触れたく思います。

 次に注目したいのは12弟子紹介の8番目に名を連ねているマタイについて、他福音書には無い「徴税人」と云う職業・肩書が付け加えられている所です。この「徴税人・マタイ」については9章9節〜13節の所で、マタイ記者が紹介した人物であると思われます。こう書かれています:

「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(イエスがその家で食事をしておられた時のことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。{わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない}(ホセア書6:6の引用)とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』)」

 この物語は他の福音書にも記載されているのですが(マルコ2:18〜22//ルカ5:27〜32)、マルコとルカ福音書では徴税人の名前が(アルファイの子)レビとなっています。これは恐らく、マタイ記者がレビと云う当初の名前を変えて自分と同じマタイとし、この出来事が記述された直ぐ後に置かれている、12弟子の召命派遣物語の中に出て来る弟子・マタイと結び付けて「徴税人・マタイ」としたもの、と思われます。マタイ記者がここで自己紹介をしているのでしょうか。(私見ですが、山上の垂訓を纏め上げ、ユダヤ教ラビの修行をしたことのある、ユダヤ教からキリスト教へ改宗したようなマタイ記者ですから、前歴が徴税人であったとは有り得ないように見うけます。イエス時代から半世紀近く経つ、マタイ教会で活躍するには、また、これほどの大作であるマタイ福音書を仕上げることが出来たとすれば、敬服する他はありません。)

 マタイ記者は12弟子の1人であるマタイを、聖書の僅か1頁前の徴税人レビがイエスによって招き入れられた召命物語と結び付けて、その人物をレビからマタイに変えていると思われます。そして、徴税人マタイが召された時に、イエスがお話になった癒しの働きを、弟子達の働きとして伝授する意図をもって、徴税人マタイの召命物語と、10章1節で宣言されている癒しの力の伝授を、この福音書記者は結び付けている事が分かります。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(同9:13

 この言葉からも、先週お話しした、癒しを求めて集まる患者の心の佇まいがイエスによって顕されている事が分かります。「患者の心の佇まい・患者の範例〜patienthood」について、前回は「自分が病んでいる事、是非とも直して頂きたいと懇願する姿勢を持っていることがイエスによる癒しの前提であると申しました。続いて今日のこの言葉から、自分が健康であると自認している人ほど、病人であることをイエスは指摘しておられます。つまり、健康な人は誰一人として居ない、と言う事実です。誰もが癒されなければならない病気を抱えている、と言うことです。

 釈迦の弟子の1人・維摩が言った言葉に「一切衆生の病むゆえに、われもまた病む」と言うことばがありますが、他人の病を自分の病として共感できないところに病いがあるのです。パウロが「義人はいない。独りも居ない」(ロマ3:10)と言う内容とも繋がっています。癒されるべき患者の心の佇まいは、先ず、自分が他者の病いを己の病として受け止めることの出来ない、キリスト教の言葉で申せば罪深い存在であることの自覚が、癒しの前提になるのです。(ルターは回心時の動機を生涯・抱き続けています:模範的な患者の例としてエリック・エリクソンは指摘し、これをpatienthoodと言いました。)

 12人の弟子たちが、どのようにしてイエスに従うようになったのか、私達は彼らが入信へ導かれた動機を知りたく思います。けれども残念な事に、福音書には殆ど記されておりません。12弟子のリストにある最初の4人についてはヨハネ福音書を除いて、召命物語として記されております。彼らはガリラヤ湖で漁師をしていた所、主イエスと出会い、主から「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられると、直ぐに従って行った、と記されています。そして、マタイ記者による徴税人・マタイについても9章9節の所で、主から「わたしに従って来なさい」と声をかけられると、直ぐに従っています。

 「出会いの瞬間は永遠である」と云う名言を残したのはキェルケゴールですが、真の出会いとはそういうものであることを聖書が証しています。相手の偉大な人格に接して圧倒されたようになる。相手の人格が自分の中に灯を灯すような体験です。私は1995年7月8日、に村上 伸先生と初めてお会いした時のことが忘れられません。この教会の前身である上原教会の責務を負っている中で、その年の3月に腎臓癌を宣告され、身辺の整理を始めておりました。教会の大先輩である善野碩之助先生に相談した所、同じ上原の地で伝道所を開いている村上先生をご紹介下さいました。それ迄、村上先生お会いした事はなかったのですが、お書きになった文書や、ボンヘッファー研究で存じ上げていた事もあり、村上先生に淡い期待を抱きながらお会いした、その瞬間、キェルケゴールの語っているあの出会いを体験いたしました。先生への前理解や私の追い詰められた窮状を飛び越えて、一切をこの先生にお委ねして従おうと思う決意が湧いて来たのを覚えています。こうして、代々木上原教会が誕生した次第です。

 イエスと弟子たちとの出会いについても、福音書では何の説明もなく、師弟関係が結ばれる様子を伝えていることが良く分かります。本日の旧約聖書は預言者・サムエルが神と出会い、遣わされる召命の場面ですが、イザヤの召命も同じように記されているのを見ても(イザヤ書6章)、出会いと召命の瞬間が新しい歴史を生み出して行くものであることが分かります。「僕、聞く。主よ、語りませ!(私は聞きます。主よ、お話し下さい)」

 12弟子の中で熱心党のシモンと、イスカリオテ(過激者集団 “スカリオート” の人)のユダについては他の弟子達とは異なる背景が語られています。ユダヤを外国の支配から解放しようとする、今で云えば、テロ組織からイエスに近付いて来たのかも知れません。イエスには弱者の側に立ち、時代を厳しく批判する姿勢も見受けられた所から、イエス集団の仲間入りをしたのかも知れません。ユダについては「イエスを裏切ったユダ」と説明文がついています。「裏切った」と云う言葉は正確には「手渡した・引き渡した」と訳すことの出来る言葉です。ダ・ビンチの「最後の晩餐」の絵にある通り、誰もが「私でしょうか」とイエスに聞かなければならない程、私達はユダと同じ存在であることを思えば、ユダだけを極悪人として見做すわけには行きません(バッハのマタイ受難曲・第15,16曲)。

 次に、マタイ記者が12弟子についてこれを「使徒」と呼び変えている所に注目したいと思います。マタイ教会は恐らく今は無き大先輩である12弟子に使徒という称号を与えています。主の兄弟・ヤコブとペトロを教会の首長とする初代エルサレム教会の権威をマタイ教会は更に強化しようとしている様子が伺えます。実際、16章でペトロがイエスをキリストとして告白する(16:16)場面で、他福音書にない言葉(16:18以下)がこの福音書には見受けられるのです。場面は、イエスの一行がフィリポ・カイザリアの泉で休んでいた時に、イエスは弟子たちに向かい、「あなたがたは私を何者であると云うのか」と問いかけました。すると16節ではこう記されています。:

「シモン・ペトロが『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」

 それに対するイエスの答えはマルコ(8:30)もルカ(9:21)でも、「イエスはご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」とありますが、マタイ記者はこの言葉を差し置いて次のようにイエスに語らせています。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 マタイ記者は(ユダヤ教に優る)キリスト教の権威を、こうしてペトロを首長とする教会の位階制度をもって補完しようとしています。ローマ・カトリック教会もそれに倣っています(サン・ピエトロ大聖堂に立つペテロ像はその証です。)。しかし、主イエス・キリストとの出会いは、人格的な出来事であって、人の手で造られた制度や外見的な威厳等ではありません。宗教改革者ルターは、位階制度や、人間による権威の伝授ではなく、聖書をただ一つの権威とし、丁度、ガリラヤの漁師たちや、徴税人をはじめ病めるものや貧しい人々がイエスと対面して頂いた言葉を通して、私達も出会いの原点に立ち返らせてくれました。

 イエスによる宣教の第1声は、本日、この礼拝の冒頭で私が代読させて頂いた招きの言葉(招詞)・マルコ1章15節でした。ガリラヤの漁師たちもこの呼びかけを聞いて召され、イエスに従う決意を新たにした宣教の言葉であります。聖書を介して私達にも今、ここに届いています。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 (意訳すれば)「今が絶好の生きる機会・チャンスですよ。神の国、支配が既に来ていて、あなたの手の届くところにあるのです。目指す方向を改めて、この良い知らせを信じて一緒に生きて行きなさい」。神の御心を行う人は誰でも、私の母、私の兄弟、私の姉妹、私の教会。イエス共同体なのです(赤岩 榮先生は教会をイエス共同体と呼び、この教会の共同墓碑に《イエス共同体の碑》と刻印されています)。イエスは今日も、そのように私達に呼びかけ、招いておられます。癒されるものが癒し手となるために12弟子と同じ出発点に立つよう、私達を招いておられます。私達も、この福音に与かって、新しい週の歩みを踏み出して行きましょう。

祈祷

主イエス・キリストの父なる神様
病の中で、あなたに贖われて、主の交わりに加わることがなければ、どれほど、時代の嵐に巻きこまれ、路頭に迷っていたかを思う時、今ここにあることの恵みを心より感謝いたします。どうか私達も主の招きに相応しく生きることができますよう、あなたから頂く癒しの力を分かち合い、証ししながら、あなたの御心に叶った命へと、それぞれを支え導いて下さい。


 
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