2021.12.26

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「インマヌエル」

廣石望

イザヤ書 7:10〜14マタイによる福音書 1:18〜25

 

I

 敬愛する皆さん、引き続きクリスマスおめでとうございます。――日本の家庭では12月25日が終わると、クリスマスツリーが速攻で正月用の門松につけ変えられますが、教会暦では1月6日の顕現祭(エピファニー)まではクリスマスです。

 さらに日本文化では、一般に「神」とは敬して遠ざけるべきものであり、必要なときにはこちらから出向いて頼みごとをする存在です。これに対して聖書の神は、初めから人の全人格を求め、ぴたりと寄り添います。人は、この神の前で隠しごとができません。

 その神が、私たちと共にあることを示すために、一人の赤ん坊をこの世界に誕生させたことを祝うのがクリスマスです。マタイ福音書のイエス誕生の物語を手がかりに、「インマヌエル」つまり「神が私たちと共に」とはどういうことかを、ごいっしょに考えましょう。

II

 マタイの物語は、夫ヨセフの視点から語られます。婚約者マリアの婚外妊娠が分かって大いにうろたえたヨセフは、彼女が婚姻破りの汚名を着せられるのをせめて回避するために、こっそり離縁しようと思案します。そこに主の御使いが夢の中に現れ、マリアのお腹の子は聖霊によるのだ。君はマリアを妻として迎え、生まれる息子をイエス(ヤハウェは救い)と名づけるよう告げます。そしてヨセフは御使いから言われたとおりにした――そういうストーリーです。

 イエスの誕生については、ナレーターの語りを通して、それがイザヤ預言の成就であると、読者に向けて解説されます。

見よ、処女が胎に(子を)もつだろう、そして息子を生むだろう。そして(人々は)彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう。23節イザヤ7:14参照)

 七十人訳聖書と呼ばれる旧約聖書のギリシア語訳からの、正確な引用です。

 引用元のイザヤ書7章の背景は、シリア・エフライム戦争(BC734-732年)です。紀元前8世紀後半、新アッシリア帝国が覇権を強めた時期、シリア・パレスチナ地域の諸勢力が反アッシリア同盟を結んで軍事的に対抗しました。同盟の盟主はダマスコのアラム人の王レツィンです。北王国イスラエルの王ペカもこれに加わりました。しかし南王国ユダの王アハズは、これに加わろうとしません。そこでレツィンとペカの連合軍は、南王国の王の首をすげ替えて軍事同盟に引き込もうと、エルサレムを包囲したのです。その後、王アハズからの支援要請を受けたアッシリア王ティグラト・ピレセル3世がシリア地域に軍を進めたため、エルサレム包囲網は解かれました。最終的にティグラト・ピレセル3世はダマスコを破壊してアラム人の王国を倒し、自国の州に組み入れました。北イスラエル王国はかろうじて独立を保ったものの、領土をほぼ削り取られました。

 イザヤの預言は、この戦争が始まる時期のものであるようです。隣国の軍事同盟について聞いた「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:2)と言われます。これに対して預言者イザヤは、彼らの目論見は「実現せず、成就しない」(7節)、「あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」(16節)とアハズ王に告げます。そして、その確証のしるしとして、「インマヌエル」つまり〈神が私たちと共にいる〉という名の男子の誕生を、そしてその子が乳児期を脱するまでに危機は去る、と告げます。そして、その通りになりました。

III

 マタイ福音書が告げる「神は私たちと共に」は、私たちにとって何を意味しうるでしょうか? 三つほど申し上げます。

 第一に「神はだれそれと共に」という表現は、例えばダビデについて「主が彼と共におられる」(サム上16:18その他)と言われるように、ある人物ないし民族が、神の加護をえて敵の脅威に軍事的・政治的に打ち勝ち、支配権を確立するという文脈でしばしば使われました。イザヤも「君はダビデ家系の王であり、神が味方なのだから、敵の連合軍ごときにビビるな」とアハズ王を励まします。近世では、スウェーデン王国やプロイセン帝国が、軍事的勝利を誇る、ないしそれを祈願するキャッチフレーズとして「神は我らと共に」という言葉を用いました。

 これに対してマタイのイエスは、ヘロデ王に命をつけ狙われ、親子で命からがら外国に逃げてゆく存在です。権力でなく、無力なイエスを通して「神が私たちと共にいる」。そそう物語ることで、マタイは「インマヌエル」概念を脱軍事化したのです。おそらくマタイ教会の中には、ユダヤ戦争のせいで難民となってシリア地方に逃げてきた人たちがいました。

 ならば私たちが紛争でふるさとを失った人々、コロナで孤立した人々、路上で暮らす人々と「共にいる」とき、神もまた私たちと共におられるでしょう。

 第二に、福音書の結びで、復活のイエスがガリラヤの山上で11人の弟子たちに現れ、世界宣教を命じます。そして最後に、「そして見よ、この私が、世の終わりまでのすべての日々、君たちと共にいる」と弟子たちを励まします(28:20参照)。こうして「神は私たちと共に」という大昔の預言は、復活者キリストが弟子たちに与える「私は君たちと共に」という約束となって成就しました。「神が私たちと共に」とは、復活のキリストが私たちと共にいることなのです。

 そのイエスは、すべての民に洗礼を授け、自分が教えたことを守るよう教えよと言います(28:19)。この福音書はイエスの教えをたくさん伝えています。ここでは「君たちは先ず、神の王国と彼の義を求めよ」(6:33参照)と「幸いなるかな、平和を作る者たちは。彼らこそ、神の息子たちと呼ばれるであろうから」(5:9参照)という2つの教えを思い起こしましょう。

 人を分け隔てしない正義と平和を教会の中外で追い求めるとき、神もまた私たちと共におられるでしょう。

 そして第三に、イザヤのインマヌエル預言で「おとめ」と訳されるヘブライ語「アルマー」は既婚の若い女性という意味で、処女という意味合いはありません。七十人訳聖書の訳語「パルテノス」は処女を意味することもできますが、やはり若い女性という意味が基本です。つまりイザヤの預言は、母親が処女かどうかに関心がありません。他方でマタイ福音書は「彼女のうちに生まれたのは、聖霊からである」(20節参照)、また「彼女(マリア)が息子を生むまで、(ヨセフは)彼女を知らなかった」(25節参照)と言うことで、母マリアの処女懐胎ないし聖霊による妊娠を強く示唆します。つまりイザヤ書の「おとめ」を処女という意味に解釈したのは、マタイが最初です。

 フェミニスト神学者であれば、女性の身体を、本人の同意なしに、神の道具に使って何とも思わないのは甚だしい女性蔑視だと抗議するでしょう。しかし、ここではもう一つの側面に注目しましょう。すなわち神と人間の間に生まれる英雄という観念は、ユダヤ教では忌み嫌われる一方で、異教世界ではごくふつうでした。マタイは異教的な仕方でイスラエルの、そして世界にとってのメシアの誕生を物語ります。おそらく異邦人キリスト者の増加を背景に、文化背景の異なる者たちが共に崇拝できる救済者のイメージが模索されたのです。マタイはキリスト信仰を通して、ユダヤ教を周辺世界に向けて開きます。

 この関連で、短く占星術の学者たちのエピソードを思い出しましょう。――一昨日のイヴ礼拝で中村吉基牧師が、この箇所に基づいて「分断線を超える」というお説教をして下さいました。――旧約聖書とりわけ預言書に「諸国民の巡礼」と呼ばれる観念があります。異教徒たちが貢物を携えてエルサレム神殿に参詣し、ともにヤハウェ神を崇拝するときが必ず来るだろう、という包括主義的な世界平和への希望です。その世界の中心がエルサレムのヤハウェ聖所です。

 すると、占星術師たちがヘロデ王をエルサレムの王宮に訪問したものの、じっさいにはベツレヘムの馬小屋で幼子イエスをこっそり跪拝したという、マタイが物語るストーリーの演出は、この伝統的イメージの皮肉を込めた読み替えです。そして彼らが拝んだイエスは復活者として、今度はガリラヤの山上で「君たちは行って、すべての民族を私の弟子にせよ」と命じます(28:19参照)。他者が自分たちのところに来るのでなく、むしろ自分たちが他者のもとへと出て行くようにと。処女降誕で生まれるメシアと並んで、マタイは自民族中心主義の克服をイエスの誕生に見ています。

IV

 皆さん、この1年も私たちは、コロナ・ウィルスによる世界的なパンデミックの中で生きました。若い盛りの人たちや働き盛りの人たちを中心に、コロナは私たちの生活をかなり変え、現代社会の問題点をいっそう浮き彫りにしました。天然資源の乱開発がジャングルの奥深くにいたウィルスを人間に近づけること、都市への人口集中と大量の高速移動が感染をあっという間に広げること、国の内外の貧富の格差が例えば医療アクセスの点で大きな差別を生みだすことなどです。自分ファーストに考える世界には、さまざまな分断が満ちています。

 しかしマタイ福音書は、神が私たちと共におられると教えます。私たちが無力な人々と共にいるとき、神がもたらす正義と平和を重んじるとき、また他者に対して自らを開くとき、復活のイエスを通して神が私たちと共にいると。

 もうすぐ始まる皆さんの新しい一年の歩みに、神が共にいて下さいますように!


 
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