2021.12.12

音声を聞く

「道を備えよ、主が来られる」

中村吉基

イザヤ書 12:2〜6ルカによる福音書 3:1〜6

 

 この8月の夏休みに代々木上原教会に礼拝出席をした私の生徒がいました。その日は平和聖日でこの教会に説教奉仕に来てくださった先生に私は、「S先生に御言葉の説き明かしをいただきます」と紹介したのを聞いて、後日書いて提出してきたレポートに、「礼拝における説教は自分勝手に語るのではなく、神の言葉を取り次ぐと聞いて説教というものが理解できたような気がした」と記してありました。

 ヨハネによる福音書の1章には洗礼者ヨハネについてこのように伝えています。

「彼は光ではなく、光について証しするために来た」8節)。

 彼は救い主(光)ではないのです。救い主を証しするために来たと言っている通りです。

 牧師の学びの一つに礼拝説教について学ぶことがあります。先週1週間、教会からお休みをいただきまして私が出席したリトリートアシュラムでは、教派を超えて何人もの牧師や司祭が共同で学びをしました。そしてじっくり聖書にきき、祈りました。神学校にも「説教学」や「説教演習」など、そこでは自分の説教が「まな板の上の鯉」ではありませんが、題材になることがあります。何度か出くわしてきた場面ですが、牧師たち、神学生たちも自分の説教に対してとやかく指摘されたり、批判されたりすることには慣れていません。かくいう私もそうです。批判的な感想を聞かされると「心が折れる」「凹む」経験をするものです。

 また「牧師の説教は神の言葉を取り次いでいるのだから、聴いている信徒がとやかくいうべきではない」というような信仰的な立場があります。牧師の礼拝説教に何もいうことができない教会があるとも聞きます。しかし、その批評的な言葉を聞かなければ、自分の礼拝メッセージに客観的を知ることがないまま終わってしまうかもしれません。でも本当はみんなが自分の説教を一生懸命聴いてくれたことに感謝しなければならないでしょう。

 今日のルカによる福音書は、洗礼者ヨハネを通して、イエス・キリストがお生まれになった当時の出来事を伝えています。今日の箇所の最初には何やらカタカナの名前がズラリと出てきますが、総督や領主、大祭司といった当時の権力者や宗教指導者の名前です。当時の人びとがこのルカ福音書の箇所を聞いた時に、いきいきとこういった人たちの名前を聞きながら、その時の社会情勢を頭に思い浮かべられたのでしょう。しかし私たちにとっては、よほどローマの歴史に興味のある人でもなければ、もう誰が誰だかわかりませんけれども、実際に歴史上で実在した当時の政治権力者と宗教権力者の名前を挙げることによって長い間待たれていた神の救いが、いよいよ歴史に介入してきたことをルカは告げているのです。

 その当時のユダヤはローマ帝国に支配されていて、権力を持つ者が、弱い者を虐げているようなことが現実に起こっていました。女性や子どもは隅に追いやられ、病気の者や貧しい農民などが罪人よばわりされていました。苦しみあえいでいる人々が大勢いました。そのような時代にヨハネが現れます。そして神からの希望の言葉がヨハネの口を通して語られたのです。ヨハネは荒れ野で、罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのです。神の救いは、この世の政治権力者や宗教指導者といった地位や身分の高い人によって告げられたわけではありませんでした。神は無名で、貧しく、荒れ野にいたヨハネを選ばれ、彼の口を通して人々に神の言葉を伝えさせました。

 ヨハネはヨルダン川で洗礼を通して人々に悔い改めることを伝えました。「悔い改め」と聞くと、私たちは自分の普段の生活の中での悪い点を反省し、改善することや罪を犯したことを糾明し、もう二度とそのようなことをしない、と誓うことのように思われます。しかし、悔い改めというのはそれにとどまらないのです。悔い改めの本来の意味とは「神に立ち返る」ということです。それは私たちの生活の一部をちょこちょこと手直しすることではなくて、私たちの心も身体も、存在すべてをかけて神のいるところに向きを直すことが悔い改めるということなのです。それまでは神を知らなかったかもしれない、また神を知っていたとしても、神のお望みになる方向とはまったく違う生き方をしていたなど、いろいろな人がおられますが、180度神に立ち返ることこそが「悔い改め」ということなのです。マイナー・チェンジじゃない、フル・チェンジなのです。

 そしてヨハネはこの神へと向きを直した人びとに洗礼を授けていました。ヨハネの使命は、人びとを救い主の到来に向けて準備をさせることにありました。その悔い改めのしるしとして洗礼を受けることが、イザヤの言葉が引用されている4節の「主の道を整える」ことになります。12月に洗礼を受けた人はひときわたくさんいますし、他の月に洗礼を受けた人びとも自分にとっての悔い改めの洗礼とは何だったのか、ということをこの待降節の間に思いを馳せていただきたいのです。

 私は日本基督教団の正教師(牧師)の按手礼を受けて一昨日で15年になりました。牧師になると洗礼を授けることを許されるようになるわけですが、牧師はすべて、洗礼者ヨハネの指し示した道を示すことを受け継いでいるといってよいでしょう。次週のクリスマス礼拝においても洗礼式が執り行われますが、ヨハネが指さした救い主に今この時代に、この21世紀の「今ここで」指し示していくことを神から委ねられたのです。しかしこれは教会的な出来事といってよいかもしれません。主の教会が更に「主の道を整える」ために、救いの言葉をまだ神を知らない人びと、神を知っていても今、神に背を向けている人々にみんなで協力して告げ知らせていく務めがあります。言ってみれば全てのクリスチャンが現代の洗礼者ヨハネです。

 この2000年前にヨハネの告げたメッセージを今日、私たちもこの時代のこの場所で時空を超えて受け取るのです。先ほども申しましたが1節からのところで政治権力者、宗教権力者の名が書き連ねられていますが、ここを今私たちが知っている各国の大統領や首相や国王に変えて読んでみてよいのです。ヨハネが指し示したイエス・キリストこそ私たちが生きる現代社会に来てくださる救い主だからです。もうひとつ待降節の一つの意味は「今、ここに来られる(来られた)キリスト」に私たちの心の焦点を合わせていく時でもあります。私たちは21世紀を迎えるその時に、「21世紀は平和の世紀にしよう」と誰からともなく言われました。しかし、それから1年が経たないうちに911の大規模なテロが起こり、20年の間に戦争、対立、紛争が続き、そして私たちの身近なところでも、いじめや虐待や殺人といったことが行われている現実です。世界の人びとはそのような現実に失望してしまいそうになりながらも、心の底から、平和が訪れ、救いの日を待ち望んでいます。ヨハネの行動はイザヤが預言した「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉そのものであると言えます。

 また、ヨハネがいたのは〈荒れ野〉でありました。荒れ野は何もない上に厳しい自然が立ちはだかるところです。私たちは今、冬の寒さに打ちひしがれても、それぞれの住まいに帰れば暖かい快適な場所が備えられています。先週のリトリートではマタイからヨハネ福音書までに記されている洗礼者ヨハネの記事を長い時間を全部で8時間かけて読みました。普段の生活ではそんな時間は取れないです。それで一つ気がついたのは、みんな都会から荒れ野に来るのです。普通なら逆です。人が集まる、楽しいワクワクするようなところに人は流れます。でも荒れ野はそれとはまったく逆の不快で、不便で、何もない場所です。ヨハネの言葉は、暖かく、快適で、便利な上に豊かな場所に慣れてしまった私たちが、見失ってしまいそうなことへといざないます。そしてこのクリスマスを待ち望む期間にも、ロマンティックで華やかなムードでクリスマスを迎えるのではないのだ、と私たちの価値観や生き方を転換すること、神の方へと向きを直すことを迫ってきます。

 5節からのところでこのようにあります。

谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。

 神の道はだれもが漏れなく歩くことのできるなだらかな道です。誰もが神に近づいてくることができるのです。これが神流の招きの仕方です。

 私たちはこの待降節、私たちの〈荒れ野〉とはどこか? 考えてみる必要があります。目に見える物質的な豊かさばかりを求めると、救い主も、神も不必要になってしまいます。私たちは簡単にまた向きを直して、神に背を向けて快楽的な方向に行ってしまうこともできるのです。私たちはさまざまなとらわれ、しがらみ、価値観で足を捕らわれてしまいそこから動けなくなってしまっています。そのドロドロとしたものから解放されるようになりたいものです。それが今待降節を旅する私たちに一番求められていることです。心をきれいにスッキリさせて、そして私たちの心の扉を開いて来週は主イエスをお迎えしましょう。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる