2021.12.05

音声を聞く

「沈黙の中で語りかける神」

中村吉基

マラキ書 3:1〜4ルカによる福音書 1:57〜79

 

 マリアが主イエスの母として選ばれる前に、神が目を留めていた2人の人がいました。ザカリアとエリザベトの夫妻です。ルカによる福音書のクリスマスの物語は、神がザカリアとエリザベトに子を授けることから始まっていきます。この「老夫婦」と言っていいでしょう。2人が結婚して何十年と子が与えられなかったのです。ヨセフとマリアがまだ10代だったのと対照的にこの老夫婦の物語が描かれていきます。これはクリスマスの救いの恵みがあらゆる年代、あらゆる世代の人々にもたらされたことを表わしています。そして神は年齢など気にされません。「若すぎる」とか「年老いている」など、そのようなことは神にとっては何でもないことなのです。私たちの常識や経験を超えたところに神は働いてくださるのです。

 まず今日のお話しをする前に、同じルカ1章5〜25節に記されてあることをお話ししておきましょう。ザカリアは祭司の務めを担っていました。つまり神殿において礼拝を司る役目にあった人です。ある日のこと、ザカリアの組が当番になり、その中でザカリアが香を焚く役目になりました。彼が聖所で御用をしている時に、あのマリアのところにも現れた天使ガブリエルが、ザカリアを訪ね、こう告げました。

「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」13節

 ザカリアもまたこの突然の天使の出現に驚きを隠せませんでした。ガブリエルの告げた言葉が神からのものだと言われても、素直に信じることができません。妻エリザベトが子を産むと言われても、もう年老いた夫妻にはあり得ないことだと思ったからです。ただただ彼はこう言うしかありませんでした。

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」18節

 しかしガブリエルはこう続けます。

「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」19,20節

 「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」ザカリアでした。自分のこれまでの経験や常識に捉われてガブリエルの告げたヨハネの誕生を信じられませんでした。そしてとうとう神を信じなかった彼は、口がきけなくなったのです。けれども妻エリザベトは天使の告げたとおりに懐妊し、口がきけなくなったザカリアは神の御業の不思議さと偉大さをしみじみと感じながらこの時を過ごしていたことでしょう。ザカリアは数か月も話すことができなかったのです!

 しかしこの時が彼のターニングポイント、悔い改めの期間になりました。今私たちも待降節という悔い改めの期節を旅しています。神は今朝このザカリアの記事から私たちも同じようなことがないのかと私たち一人一人に尋ねておられます。言葉を失ったザカリアはこの時静かな沈黙のうちに自分に語られた神の言葉を黙想したのです。そして「神、ゆるしてください」と祈ったのです。ですからザカリアにはもう不安はありませんでした。それよりもこの老夫婦に目を留めてくださった神の大きな愛といつくしみを噛みしめていました。そしてこの老夫婦だけではない、その背後にあるものは神を待ち望み、神の愛といつくしみを必要としている民ひとりひとりに注がれるものでした。

 今日の箇所の67節から始まる「ザカリアの賛歌」は神の救いの大いなるご計画をテーマとしています。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、……幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く」

 妻エリザベトは男の子を産みました。男の子が生まれて8日目の割礼の日にいよいよこの子に名前を付けることになりました。近所の人々や親類がおおぜい集まっている中、イスラエルの伝統でこの子には父親の名をとってザカリアと名付けようとしました。しかしエリザベトはこう言いました。

「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」60節

 驚いた周囲の人々はザカリアに手振りで尋ねます。しかしザカリアも板に文字を書いて、「この子の名はヨハネ」と示したのです。人々はさらに驚きました。ここにも神の業は人間の伝統などで決まり切ったことなのではなく、神の自由なお働きを垣間見ることが出来ます。ちなみにヨハネとは「神は恵みである」という意味です。

 その瞬間、ザカリアの「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」のです!

 何か月も口がきけなったザカリアの第一声は自分のことでもなく、赤ん坊のことでもなく、神を賛美する言葉だと今日の箇所では告げているのです。今日は週報の表紙にも選句しましたが、このザカリアの賛歌の一節に「あけぼのの光が我らを訪れ……」とあります。今の季節、夜の闇が本当に深い色をしています。恐ろしいくらい夜空の色が重々しいです。ですから月や星がきれいに見えるのでしょう。「あけぼのの光」とはその夜の闇にまばゆい光が差し込むことを言います。今ですと朝6時台にこういう光景を見ることが出来ます。ザカリアはこのあけぼのの光が「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く」と言いました。ご存じのように月や星というのはそれ自体が光を放っているわけではありません。太陽の光を反映して、あの夜空で輝いているのです。考えてみれば私たちも同じなのではないでしょうか。神の光、救い主の輝きによって照らし出されているのです。

 今私たちの周囲にも「暗闇と死の陰に座している」人々がいます。心が闇の中にどっぷり浸かっている人たち、もうどうして良いかわからずに心が擦り切れそうになっている人たち、そして今死と向かい合わせになっている人たちもいるでしょう。救い主イエス・キリストの光はどんな闇の力にも負けることはありません。そしてキリストの光が差し込まない場所はありませんし、すべての人を「平和の道に導く」光なのです。主イエスの光に照らし出されて私たちも一歩を踏み出してその人たちのところへと行きましょう。


 
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