I
新約聖書で「平和」と訳されるギリシア語「エイレーネー」は、旧約聖書のヘブライ語「シャローム」に対応します。
旧約聖書の「シャローム」はまず、「こんにちは!」に当たる挨拶の言葉です。――新約聖書でも、パウロが手紙の冒頭にギリシア語で「君たちに恵みと平和があるように」(ロマ1:7他)と書くとき、ヘブライ語の「シャローム」が透けて見えます。別れに際しても「平和のうちに行け」と言われます(出エジプト記4:18――新共同訳「無事で行きなさい」)。
シャロームは健康をも意味します。ヨセフ物語で末弟ヨセフが兄たちに「父は元気(平和)ですか?」と尋ねると、兄たちは「元気(平和)です」と答えます(創世記43:27-28)。
祝福された生を送って長寿を全うした者の死は、「安らかに(=平和にあって)先祖のもとに行く」と言われます(創世記15:15)。後のラテン語requiescat in paceが(その英語版がrest in peace)、〈苦しいこともあったろうけれど今は平和に休んでくれ〉というのとはニュアンスが違います。
あるいは敵対関係が心配されるとき、相手に向かって「君は平和のために来たのか?」と問い、「平和のために来た」と返答されます(サム上16:4-5――王上2:13の新共同訳「穏やかなことのために来たのか」も参照)。
さらに、バビロニア捕囚からの解放と都市エルサレムの回復を夢見て、預言者エレミヤはそれを「平和」と表現します。
あるいは、詩編では次のように歌われます。
こうして旧約聖書のシャロームの意味は広く、たんに「戦争がない状態」だけのことではありません。むしろ「幸せ/無事/健康/長生き」「良好な人間関係」などの個人的なもの、「祝福/いやし/繁栄/地の実り」などの社会的なものを含み、また神の「慈しみ/誠意/正義の実現」などの宗教的な意味の広がりがあります。命があらゆる意味で完全に満たされ、欠けがない状態と言えるでしょう。
II
現在、新型コロナウイルスの感染が収束せず、日本ではむしろ急速に拡大しています。ここ数日は日々の感染者が2万5千人を超え、いわゆる「自宅療養者」が10万人に達する勢いと聞きます。地方からは「東京から来ないで!」と言われ、ワクチン接種も遅れている一方で、〈パンデミックもワクチンもすべて陰謀だ〉という人たちもいて、社会は引き裂かれています。私たちのシャロームは脅かされています。
こんな状況で「安心・安全」と言われても、しっくりきません。オリンピックを「復興」のシンボルとして祝おうにも、あまりに多くの利権の絡んでいることが見えてしまいました。世界を見渡しても、独裁政権による言論統制やクーデターなど、旧約聖書が「シャローム」と呼ぶ状態、また詩編で「平和と正義が口づけする」と言われるような状態からは、残念ながら遠いと言わねばなりません。
私たちが心から憧れ、またコミュニティーと社会を満たす「平和」とは、いったい何でしょうか?
III
新約聖書は、その平和が神によって、イエス・キリストを通して実現されたと言います。同じ『エフェソの信徒への手紙』に次のようにあるとおりです。
キリストの無残な処刑の死が、ユダヤ人と異民族の間の敵対関係を解体し、彼らを等しく神と和解させることで平和を実現したその結果、全人類はあたかも「一人の新しい人間」のようになる、という意味です。――この手紙の宛先教会には、ユダヤ人と異邦人の両方がいて、両者の「一致」はすでに実現していると同時に、なお課題であり続けていたことでしょう。
IV
本日の箇所で、著者が「召し」(原義は「呼ぶ」――新共同訳「招き」)を強調するのも、神が創設した平和と和解を受けとることが、教会共同体の出発点にあるからです。
教会は、神によって「召された(呼ばれた)」者たちの集まりです。そこに集まる人間たちの共通項には拠りません。国籍も性別も社会層も、政治的信条から音楽の趣味に至るまで、皆ことごとく異なります。それゆえ「召しにふさわしい歩み」とは、まず仲間同士のあり方としては、
なされます。正直に「互いを持ちこたえる」(新共同訳「互いに忍耐する」)と言われていますね。
同じことが、次には神の「霊」との関係で、次のように言われます。
「一致」と訳したギリシア語は「単一であること」という意味です。教会は聖霊が生み出した統一体です。そのメンバーは神のスピリットに参加する者たちですので、そのスピリットが一つであることを、神からもらう「平和」において「守る」よう求められます。
そのさい「平和のきずな」の「きずな」を試しに「共同呪縛」と訳したのは、原文のギリシア語「シュンデスモス」の語根が1節の「囚人(デスミオス)」と同じだからです。すなわちパウロは獄に「縛られ」、信徒たちは神の平和によって「共に縛られる」。この言葉遊びは意図的でないかもしれませんが、外国語として読む私の目にはそれなりに飛び込んできます。
そうすることで、「一つの体、一つの霊」としての教会は実現します――「君たちが、君たちの召しという一つの希望にあって召されもしたそのように」(4節参照)。私たちがキリストを救い主と告白してキリスト教会に入会するとき、それぞれに異なる個別の人生のストーリーがあります。各人の信仰の歩みも、じつに多様です。それでも、私たちを召した神は「一人」の同じ神です。だから神と自分の信仰心を混同せず、私たちから区別される「一人の神」が、その息子なる主イエス・キリストへの信頼を通して、私たちの希望の根拠になります。だから、こう言われます。
この表現の背後には、洗礼前の学びがあるかもしれません。通常「信仰」と訳される語は、人間の信心というより、神が主キリストを介して開いた信頼関係の意でしょう。その中に入るための象徴行為として、私たちは皆――国籍、性別、身分の違いなく――等しく水に沈められて、いったん死ぬのです。
ギリシア哲学の伝統に、「万物の上に達し、万物を貫き、万物の中にあるのが神であると、私に思われる」という観念があります(アポロニアのディオゲネス、前5世紀?)。「万物」について語るのは宇宙論です(新共同訳もその立場)。しかしエフェソ書の著者は、こうした宇宙論の伝統を踏まえつつ、それを教会共同体のメンバーに転用して「万人」と言っているのかもしれません。著者の最大の関心は、教会の一致にあるのですから。
V
では、私たちを等しく縛り、同じ希望へと導く神の「平和のきずな(共縛り)」とは、改めて何でしょうか?
ひとつの手がかりに、現在世界で440万人に及ぶ新型コロナウイルス感染症による死者数があるでしょう。ひとまず生き残っている私たちは、死者たちのことを忘れて、「早く以前の生活に戻りたい」と自らの権利を主張するだけで本当にいいのでしょうか?
先月、私は田舎の母を天に送りました。教会の皆さまからいただいた慰めの言葉に感謝します。母は感染していなかったと思いますが、過去18ヵ月の間、病室での面会は許されませんでした。その意味で、彼女はコロナ関連死の末端にいます。
同じような個々のストーリーが、440万人の死者にもあるでしょう。私たちは、この人々を悼むことから始めることができそうです。パンデミックの遠因は、人間による環境破壊にあるとのこと。そして地球上で人間だけが核兵器を所有していることを思えば、環境破壊の最たるものが戦争であることは間違いありません。
今から約80年前の1940年11月、第二次世界大戦中にドイツ空軍の爆撃によって破壊された、英国コヴェントリー聖堂の崩れ落ちた壁に、リチャード・ハワード司教が書きつけたFather, forgive!(お父さん、赦して)という祈りにちなむ和解の祈りを思い起こし、その一部を共に祈りましょう。