2021.07.18

音声を聞く

「休みなさい」

中村吉基

エレミヤ書23:1〜6マルコによる福音書6:30〜34

 人間には休息が必要です。この間も申しましたが、一昔前のテレビのコマーシャルに「24時間戦えますか?」というものがありました。しかしそれは不可能です。今、周囲を見回しますとコンビニだけではなくて、24時間営業の店が増えてきました。人間だけではなく電気機器などは働き通しのものがあります。綿密なメンテナンスをしないと取り返しのつかないことになるかもしれません。

 私たちの体の器官、臓器も働き通しです。本当はすべてのものに休息が必要なのです。牧師もスーパーマンではありません。人間ですからやはり休息の時、リフレッシュすることが必要です。私たちが休息を取ることは次への活力を生み出しますし、休んでいる間に良いアイデアが浮かぶこともありますし、これまで自分が歩んできた道を冷静に振り返ることもできます。そうして軌道修正をしながら私たちの人生の歩みは続けられていきます。

 スマートフォンが普及してから、いろいろな予定の通知がスマホを通して知らされます。時には災害警報も知らされてきます。便利です。けれども人に接する時間は短くなったかもしれません。私はそのことで主イエスを遠ざけているのではないか、と思うことがあります。主イエスがそのような私のもとに来たならば、私の方では言い訳することができないのではないか。忙しい現代人の私たちには、だからこそもっと主イエスに近づいて、主イエスに集中する必要があるのです。

 今日の聖書の箇所は、宣教旅行に出かけていた弟子たちが主イエスのもとに帰って来て、その報告をしている場面です。残念ながらこの箇所にはその報告の内容までは書いてありません。どのような実りがあったのか、知りたい気がします。しかし、他の箇所を読めば分かるのですが、主イエスはいつもご自分の弟子たちに「ため息」をついておられたのです。自分本位で、いくら熱心に教えを説いても少しも聴いていないような未熟な弟子たちでした。

 ですから弟子たちが果たして主イエスの期待通りに宣教を行ったかどうかは分からないのです。それがたとえ期待通りの宣教をしても芳しい結果を生んだかどうかさえもわからないのです。弟子たちが懸命に福音宣教をしたけれども、先々週読みました故郷のナザレで人々から冷ややかな反応しか返ってこなかった主イエスのような結果になったかもしれません。弟子たちの何人かの前職は漁師をしていましたから、漁師が教師になった。すなわち神の国の福音を人々に教える立場になったということで感動していたかもしれませんし、自己陶酔していたかもしれないのです。

 主イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。これは宣教旅行で疲れた弟子たちに「ゆっくり休みなさい」という主イエスの優しさとも取れますし、はたまた主イエスは弟子たちのハイ・テンションぶりをご覧になって、その興奮を醒ますためにかけられた言葉とも読むことができます。けれどもこの時、今日の箇所から分かることは、イエスの評判が高まっていわばイエスの「追っかけ」や、熱心なファンが押し寄せてきていたことは事実です。そこで本当の意味で人々から離れて休もうとされました。

 しかし舟に乗って静かな場所に移動したはずが、そこにまで多くの人たちが「一斉に駆けつけ」た(33節)とあります。しかもイエス一行よりも先回りしていたというのです。しかしそこで主がなさったことは群衆を追い返してみたり、そこから逃げていくような「拒絶」ではなかった。それらの人々が「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれた、と福音書は記しているのです。

 さて「人里離れた所」とはどのようなところのことを言うのでしょうか。それはしばしば主イエスが大切にされた場所です。主イエスは祈りをするために山へ登られたことが福音書に記されています(マタイ14:23他参照)。十字架にお架かりになる前にゲツセマネというところで祈られたのも、「人里離れた所」でした。休息を取るのは、日常から離れた場所、今の私たちに当てはめてみれば職場や学校や家庭といった場所から離れたところです。

 私たちの心と頭は、いつも日常のことでいっぱいになっています。仕事のこと、人間関係、遊び、勉強のことなどが私たちを占拠してしまっています。普段の私たちを省みれば仕事や家庭や付き合いというものに次々と引きずり回されています。そのような慌ただしさの中で、神のことを思うことなど不可能です。私たちは今日、自分たちの日常を神のために献げることをこの箇所から学びましょう。私たちの心と身体を支配している様々なものから少しでも解放されるように努めるべきです。一日に少しでもいいのです。神に献げる時間を持つように努めましょう。そして徐々に私たちを取り巻いているものをはずして神に時をお返ししていくことができたらどんなに幸いでしょうか。

 私はこれまでに何回もカトリックの修道院に泊まりこみで黙想をしに行ったことがあります。忙しい毎日を送っている者にとっては、まるでシェルターのようなところです。そこではいくつかのルールがありまして、人の言葉を聴くことはありません。食事の際も沈黙を守ります。他の利用者と言葉を交わすことはありません。新聞も、テレビももちろんありません。緊急のことがあるかもしれませんので、携帯電話だけはチェックするようにしていますが、それでも極力電源を切ります。パソコンからも自由になるのです。そこには神の言葉しかありません。静かに、沈黙のうちに神の言葉に耳を傾けることができます。たとえ少しの時間でもそのような時を持つと、人間にはまた希望が生まれてきます。やる気が出てきます。心が軽くなって、気持ちよく家に帰れるのです。そうしてまた日常に戻って行きます。

 私たちが日常生活を捨てることは容易なことではありません。むしろその日常の中で生きることこそが神のみ心でもあるのです。その中で心おきなく神と向き合う機会を作らなければ私たちはすぐにオーバーヒートしてしまうでしょう。

 神と向き合うということは、神のいのちに触れるということです。私たち一人ひとりは、ただ偶然に生まれてきたのではありません。皆さんは誕生したことにはそれぞれに意味があるのです。この世界に無駄な人間はいません。ですから私たちのいのちの源である神に触れることこそによって、私たちは回復することができるのです。それが、主イエスが弟子たちに与えた休息です。私たちは神の光に照らされて、またいきいきと回復することができます。それが私たちの輝きを増すことにつながり、だれか力を無くしている人に向けて、キリストの香りを放つことができるのです。

 暗い表情で力の出ない人よりも、輝いて希望に満ちている人のほうがステキに決まっています。死んでしまったようにひっそりしている人よりも、いきいきと目的を持って生きる人のほうが魅力的です。私たちは神と向き合うこと(=祈り)なしに行動をするのは、ただの中身が伴っていない行動です。教会でもそうです。どんなに素晴らしいメッセージをしようとも、どんなに尊い奉仕をしようとも、祈りがなければそれは見せかけだけの行いになるのです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ一 5:16-18)。

 このみ言葉を行うことは、なかなか難しいことです。果たして私たちは、いつも喜んでいられるでしょうか。すべてのことに感謝できるでしょうか。でもこの間に「絶えず祈りなさい」とあります。これが救いの言葉です。絶えず神と向き合うひとときを持つことによって、私たちは喜び、感謝することが出来るように変えられていくのです。日常生活の中で、私たちは忙しくなればなるほど、神のことを忘れてしまいます。その中で絶えず祈る者となりたいと願うのです。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる