2021.07.04

音声を聞く

「故郷に錦は飾れない?」

中村吉基

エゼキエル書 2:1〜5マルコによる福音書 6:1〜13

 皆さんは主イエスのいったいどこに魅かれてキリスト者としての歩みを起こしたのでしょうか。私が共感するイエスの姿は、強い主やカッコいい主ではありません。そうではなく「挫折するイエス」が私には迫るものがあるのです。田舎の貧しい家で育ち、周りにはやはり貧しく困窮している人たちがうごめいていて、今日の箇所にあるように、その同胞たちからもののしられ、最期は弟子たちからも裏切られ、殺されていく。彼の生涯は本当に良い人生だったのか、正直にいって挫折だらけの人生といえるかもしれません。

 でもそんな主イエスの姿に私は魅かれるのです。いわば「負け組」の人生であったかもしれません。けれどもそこに本当の悲しみや苦しみを心の底から、身体の芯から理解していただろうと思うのです。

 冒頭にイエスが「そこを去って故郷にお帰りになった」とあります。神の国を伝える宣教旅行から故郷ナザレに帰られたのです。主イエスは自らお選びになった弟子たちとともにガリラヤ地方を巡り、神のことを伝え、救いを語りました。それだけではなく、先週の礼拝でご一緒に聴きましたこの直前の箇所は会堂長ヤイロの娘を主が甦らせる記事です。このように数々の奇跡を起こし、病の人を癒し、罪から解放させられました。

 主イエスの公生活を見ると、その宣教は神のことを宣教し、そして神への信仰を続けるように教育をし、そして病人を癒す奇跡に代表されるように奉仕を行われました。この宣教・教育・奉仕という3つの事柄が主イエスのわざの中心でした。そしてイエスは多くの人びとの賞賛を受け、人望を集めていました。今日の箇所はそのようなわざを続けておられた主イエスが初めて故郷にお帰りになる場面です。故郷ですから親兄弟がいて、親戚がいて、幼なじみがいてイエスにとっては文字通り「故郷に錦を飾る」ことになろうかという里帰りでした。

 今までの宣教の旅においてもそうであったように、安息日に会堂に集まってきた人々に(2節)神の救いを宣言され、教え始められました。故郷ナザレの人たちは、この当時、どこに行っても歓迎され、引っ張りだこであった主イエスに昔なじみの親しい人たちが住んでいた場所でもあり、主イエスにとっても特別な思い入れのある場所でありました。

 しかし、故郷ナザレ(マルコ1:9,ルカ4:16)の人たちは、これまでになかった反応を見せました。「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った」とあります。私たちも驚くことはあると思います。皆さんはどんな時に驚くのでしょうか? まず何かとんでもなくひどいことが起こった時に驚くのではないでしょうか。あるいはとても素敵で、素晴らしいことが自分の前に起こってそれに驚くということもあるでしょう! このように「驚く」時には、いいことと悪いこと両方に驚くというという反応や側面があります。主イエスの故郷の人々はいったいどうだったのでしょうか。

 2節の途中のところからご覧ください。

 私は岩波書店版の聖書、佐藤研先生が訳されたものをここで引用します。

「多くの者が〔これを〕聞き『これらのことがどこからこいつにやってきたのか。それにこいつに与えられた知恵はいったい何だ。また、その手でなされた、これほど〔のさまざまな〕力〔ある業〕は〔いったい何だ〕。こいつは大工職人ではないか。マリアの息子でヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で、俺たちのもとにいるではないか』。こうして彼らは彼(=イエス)に躓いたのである」。

 新共同訳では「人々はイエスにつまずいた」とあります。つまりこの驚きは躓きに終わってしまった。主イエスに対するナザレの人たちの反応はとても冷ややかなものでした。なぜ自分達と同じ田舎の出身のイエスが知恵に満ちた言葉を雄弁に語り、大きな力を発揮して奇跡を行うことができるのか。主イエスは祭司でもありませんでしたし、律法の教師でもなかったのです。いわゆるインテリ層やエリートに属する人ではありませんでした。有名な学校を出たわけでもない。ごくごく普通の庶民でしたし、父親のヨセフと一緒に大工の仕事をしていました。

 しかし、このイエスに対する人びとの「先入観」が、ナザレの人たちの救いを遠ざけてしまったのです。人びとの勝手な思い込みがイエスのような男がメシアであるわけがない、という思いにさせてしまったのです。主イエスは懸命に神の救いを説いたにもかかわらず、人々は聞く耳を持ち得ませんでした。この何か冷たくて、しらけきった雰囲気の中でイエスは、自分に最も親しい故郷の人たちの反応に、逆にイエスのほうが「驚いて」しまったのでした。彼らの不信仰さのゆえに、何の実りもそこにはありませんでした。

 私たちにも、こういうことがよくあります。感性が曇った状態、心が曇った状態になっています。私たちは普段からこういう状態に慣れきっています。なかなかホンモノを見極められないのです。しかし見つかった眼鏡をかけてからもう一度同じものを見てみると、まったくそれまで見えていたものとは違うものが目に飛び込んでくることがあります。私たちは信仰という眼鏡をかけて、それぞれの心をよく研ぎ澄まされなければならないのです。そして物事をクリアに、キチンと見極められる眼鏡をかけていなければならないのです。

 今日の箇所に出てくるナザレの人びとのように、私たちも先入観によって、本来見えるものを見えなくしてしまっています。たとえば私たちは、Aさんという人が仮に居たとしましょう。このAさんが有名な大学を出ているとか、お金持ちの家に生まれたとか、家族にはこのような立派な人が居るとか、いい服を来て、いい車に乗っているとか、外見で人を判断してしまったり、また、Aさんに一度も会ったことがないのに周りの人の評判だけでその人を判断してしまっていないでしょうか。有名校に学んだといっても、いい会社に勤めているからその人が立派な人だという基準は何にもないはずです。そういう人だって人を殺し、人をだましいろいろな事件を起こすことだってあることをテレビや新聞でよく知っているはずです。少なくとも神の前に一人の人間が立ったときに、学歴だろうが身分の違いが問われることがないのです。それらのことは神の目には重要なことではないのです。

 主イエスはこう言われました。「わたしにつまずかない者は幸いである」(マタイ11:6)。私たちの心を研ぎ澄まして神のみ言葉を日常の中で受ける者となりましょう。どのような小さなもののなかにも神のみわざを見出せる者になりましょう。

 主イエスは結局、故郷ナザレに失望せざるを得ませんでした。しかし主イエスの生きざまは「負けて、勝つ」というものでした。人間は勝つことばかり考えて、自分さえよければ、自分が勝てばそれで良い、他人のものでも取ってしまえばいいといった自己中心的な生き方は、お互いに苦しめ合って不幸になるばかりです。私たちは誰かが勝って喜んでいたら、悔しがるのではなく、「良かったですね」という言葉をかけてあげられるくらいの余裕と大きな広い心をもつことが大切です。事実主イエスご自身がそのような生き方をされて、私たちに模範を示してくださったからです。


 
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