2021.06.13

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「成長への第一歩」

中村吉基

エゼキエル書17:22〜24マルコによる福音書4:26〜34

 今日の聖書の箇所に「からし種」の譬え話があります。「からし種」は直径1〜2ミリの小さな種で、明らかに小さなもののたとえです。しかし、こんな小さな種でも、成長すると高さが3〜4メートルになると言われています。このたとえ話は、神の国が初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになる、ということを表しています。

 当時の人々にとって、神の国というメッセージは、神が王となり、ローマ帝国の支配という苦しみから自分たちを解放してくれるということに受け取れました。そのような政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、主イエスの周りに集まった人々の集団はみすぼらしく、神の国からは程遠いと感じられたのではないでしょうか。しかし、主イエスは、この小さく、貧しい人々がいる現実の中に神の国の確かな芽生えを見ていたのです。

 小さなからし種が、大きく成長する。私たちの予想をはるかに超えた「逆転」です。そして実は神は私たちの一人ひとりの中にも、からし種を一粒与えてくださっているのです。それはもれなく誰に対しても与えられているからし種なのです。

 皆さんは自分の欠けているところ、短所や弱点は何であるか、理解しているでしょうか? そしてそれをすぐに挙げられるでしょうか? 

 私たちが成長するには自分の欠けている部分をよく知ることです。そして自分はそれを克服するために何を求めているのか、それをよく理解している人は成長することができるでしょう。小さなからし種が自分の小ささを知っていたから3〜4メートルの大きさに成長したとは言えないでしょう。

 しかし、神は人間に考える能力を備えてくださいました。この「考える力」こそがからし種と言えますし、主イエスは違う場面で言われましたが、私たちの信仰もからし種に譬えられています(マタイ17:20)。つまり大きくするのも、小さいままでいるのも私たちにかかっているわけです。そして私たちに与えられた〈賜物〉〈才能〉もからし種と言えます。よく私はこのように譬えますけれども、私たちには平等に小さな炭火を心に点火されています。それに息を吹きかけてくださるのが聖霊の息吹ですし、自分自身の努力によってもその火を大きくしていくことが可能です。

 話を戻しますと、誰もが、どこか欠けているのです。完全な人間など一人もいません。しかし、私たちはその欠けているところをなかなか認めようとはしません。意識的になのか、はたまた無意識のうちに隠してしまおうとさえします。自分をさらけ出すのを避けようとします。そして本当の自分とは違った自分を作り出してしまいます。

 なぜそうしてしまうのでしょうか? 他人から拒絶されるのが怖いからです。人前で恥をかくのが怖いのです。しかしもっと本当のことを言えば、そのことによって自分が傷つくのを恐れているのです。私たちには神が一緒に居られます。すべての創造者である神です。神の眼から見れば、私たちの憂いは些細なことに過ぎません。私たちが人間として大きく成長するためには、他人から拒まれたり、恥をかくことを恐れる必要はまったくありません。私たちの神を主とあがめる時にその憂いはすべて消え去ります。

 詩編23編の冒頭には「主は私の羊飼い、私には何も欠けることがない」。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント 一 3章7節)。むしろ私たちは自分の弱さや欠点を隠そう隠そうとすることによって生じる弊害を考えなくてはいけないでしょう。 私の高校時代にひとりのクラスメートが教えてくれた一編の詩を忘れることができません。それはこのような詩でした。

教室は まちがうところだ    
               まきた しんじ

教室は まちがうところだ
みんな どしどし 手をあげて
まちがった意見を 言おうじゃないか
まちがった答えを 言おうじゃないか

まちがうことを おそれちゃいけない
まちがったものを ワラっちゃいけない
まちがった意見を まちがった答えを
ああじゃないか こうじゃないかと
みんなで出しあい 言い合うなかで
ほんとのものを 見つけていくのだ
そうしてみんなで 伸びていくのだ

いつも正しくまちがいのない
答えをしなくちゃならんと思って
そういうとこだと思っているから
まちがうことが こわくてこわくて
手もあげないで 小さくなって
黙りこくって 時間がすぎる

しかたがないから 先生だけが
勝手にしゃべって 生徒はうわのそら
それじゃあ ちっとも伸びてはいけない
神でさえ まちがう世のなか
まして これから人間になろうと
している僕らが まちがったって
なにがおかしい あたりまえじゃないか

うつむき うつむき
そうっとあげた手 はじめてあげた手
先生が さした
どきりと胸が 大きくなって
どきっどきっと 体が燃えて
立ったとたんに 忘れてしまった。
なんだかぼそぼそ しゃべったけれども
なにを言ったか ちんぷんかんぷん
私は ことりと座ってしまった

体が すうっと涼しくなって
ああ言やあよかった こう言やあよかった
あとでいいこと 浮かんでくるのに

それでいいのだ いくどもいくども
おんなじことを くりかえすうちに
それから だんだん どきりがやんで
言いたいことが 言えてくるのだ

はじめから うまいこと 言えるはずないんだ
はじめから 答えが当たるはずないんだ

なんどもなんども 言ってるうちに
まちがううちに
言いたいことの半分くらいは
どうやら こうやら 言えてくるのだ
そして たまには 答えも当たる

まちがいだらけの 僕らの教室
おそれちゃいけない ワラッちゃいけない
安心して 手をあげろ
安心して まちがえや
まちがったって ワラッたり
ばかにしたり おこったり
そんなものは おりゃあせん

まちがったって 誰かがよ
なおしてくれる 教えてくれる
困ったときには先生が
ない知恵しぼって 教えるで
そんな教室 つくろうやあ

おまえ へんだと 言われたって
あんた ちがうと 言われたって
そう思うだから しょうがない
だれかが かりにも ワラッたら
まちがうことが なぜわるい
まちがってること わかればよ
人が言おうが 言うまいが
おらあ 自分であらためる
わからなけりゃあ そのかわり
誰が言おうと こづこうと
おらあ 根性曲げねえだ
そんな教室 つくろうやあ

 この詩は長野県で中学校の教諭をしていた蒔田晋次先生が創った詩だそうです。私たちこの「教室」を自分の職場とか家庭とか教会とか、自分の居る場所に置き換えることができます。失敗を恐れていては何も生み出されません。

 からし種にいのちを与えたのは誰でしょうか? 土に埋められて養分を与え、成長させてくださったのは誰でしょうか? すべての源は神です。

 私たちも同じなのです。神がいのちを与え、神が成長させてくださる。だから私たちは自分のありのままの姿になって、ゆったりとした気持ちの中で自分を解放して、弱さや小ささや欠けから生じる困難について神に助けを求めればいいのです。

 いのちの造り主である神は私たちの親です。親だからこそ言えることがあります。親だからこそ素直に、率直に話していいのです。

「困っています。助けてください」。
「どうしても分からない。教えてください」。
「とまどっています。どうしたらいいのでしょう」。

 皆さんは普段の祈りのなかでこのように神と会話をしているでしょうか。私たちが言葉にしなくても、心のうちまで神はご存知です。しかし、心の中にある問題を吐露することによって、私たちは神に向かって生きていることを自覚しますし、問題が整理されていくきっかけを作るのです。

 このように素直に率直に告白することによって、私たちは成長させられ、新しい人生を歩んでいくことができます。

「助けてください・・・・・・」。

 素直にこの言葉が自分から出てきたら、成長への大きな一歩です。

 助けを求めることは恥ずかしいことではないのです。弱い人間のすることでもないのです。隠すことのない人は堂々と人生を歩む人です。からし種がやがて大きく成長していく姿に似ています。私たちは神の子どもです。祝福を受けられないはずがありません。神に喜ばれる人として、新しい一歩を今日から踏み出しましょう。


 
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