2020.12.20

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「あなたがたへのしるし」

中村吉基

イザヤ書 9:1〜6ルカによる福音書2:1〜20

 私たち人間の世界に、今から2000年前に来てくださったイエス・キリスト。キリストは貧しい家畜小屋で生まれ、世間の人からは相手にもされず、差別され虐げられていた人の友となってくださいました。讃美歌280番に由木康先生が作詞された「馬槽のなかに」という曲がありますが、このキリストの生涯がよく描かれています。その3番の歌詞はこうです。

すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。

 神はなぜキリストをこの地上にお送りくださったのでしょうか。この礼拝で私たちはそのことに思いを馳せてみたいと思うのです。それは愛のない、殺伐とし、人と人とが争い、暴力が横行する世界の中に、キリストを通して神の愛が伝えるためでした。それはパレスティナのベツレヘムという小さな田舎町で点された愛の火でした。しかし、キリストの愛は、はじめは木炭の隅に点された小さな火であったかもしれません。しかし神の息が吹きかけられてやがて大きく広がっていきました。世界中の地域の壁を越えて、人種や、年齢や、性別や、境遇を超えて、今日世界中に広がっているのです。ではキリストはなぜ私たちの世界に来てくださったのでしょう。そしてなぜ私たちは毎年クリスマスを祝うのでしょうか。

 それは私たちの中に息づいているはずのキリストの愛の火に、私たちが再び気づくためなのです。私たちは誰もがとても優しい心を持っています。いつも怒っていたり、機嫌の悪い顔をしている人がいたとしても、その人の中にも優しい心が宿っています。けれども、私たちの力でキリストの愛を奥へ奥へと押しやっているのです。その皆さんの中に隠された優しさを、誰かを愛する気持ちを、キリストはご自分の行動や言葉、そして何よりも神と人とを愛して、愛して、愛しぬく心をもって、私たちの本来の優しい心を呼び覚ましてくださるのです。だから私たちはキリストに倣いたい、キリストのように神と人とを愛したいと思わずにはいられないはずなのです。「キリストの愛が私たちを駆り立てて」(コリント二 5:14)いることを再確認する日がクリスマスなのです。

 先ほど聴きましたルカによる福音書2章の記事ではイエス・キリストのご降誕の出来事自体が、この世界の中で苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちと連帯する神のみこころが深く感じられるのです。ベツレヘムでマリアは産気づき、留まる場所が無かったため、家畜小屋においてイエス・キリストがお生まれになったとルカ福音書は記しています。長い間、ヘブライ民族が待ち望んでいた救い主の誕生する場所としてはおおよそ似つかわしくないところだったと言えるかもしれません。主イエスは人の居場所ではないところに生まれたのでした。今日の箇所に「飼い葉桶」という言葉が3回も繰り返されます。救い主の到来は、人々が思い描いていたようなものではなく、人としてふさわしくない場にお生まれになったのです。天使は告げました。よく見つめなさい、それが〈あなたがたへのしるし〉であるというのです。

 そしてその救い主誕生の第一報は皇帝でも王でもなく、貴族や宗教指導者、学者などいわゆる社会の中で「エリート」とされていた人たちにではありませんでした。もっとも貧しい職業とされていた羊飼いたちに天使たちを通して告げられたのです。羊飼いたちは悪霊が住むと言われていた荒れ野や、ヘブライ民族が固く交際を禁じられていた異邦人の土地にも入り、その仕事をしていたので汚れた者たちとして差別されていた人たちです。以前「3K」という言葉が流行ったことがあります。もっとも就きたくない職業「臭い」「汚い」「危険」あるいは「きつい」「帰れない」「給料が安い」。みんな頭文字がKから始まる言葉です。しかし、神は世界で真っ先に羊飼いたちに救い主のご降誕を告げ知らせたのです。ここに救い主が来られた意味があるのです。

 社会の片隅に置かれた人びと、人間扱いをされない人びと、その中には病や障碍のために仕事ができない人びとも、失業のために税金を払うことができない人びとも、差別や偏見の眼差しを向けられている人びとなどなど多くの苦しみや悲しみそして貧しさの中に置かれている人びとと同じ立場で救い主がお生まれになるために神様は家畜小屋を用意され、そこで主イエスが誕生されたのです。幼子イエスは貧しい家畜小屋でお生まれになり、そこには何の障害となる壁もなく、羊飼いたちをはじめ、あらゆる人びとがありのままの姿で拝みに行くことができました。これが救い主のご降誕に秘められた神のメッセージでした。

 アメリカにアーミッシュと呼ばれるキリスト者のグループがあります。ペンシルベニア州、オハイオ州やインディアナ州などに居住するドイツ系アメリカ人で、人口は20万人以上いると言われています。アーミッシュは移民当時の生活様式を守るため、電気を使用せず、現代の一般的な通信機器(電話など)も家庭内にはなく、原則として、現代の技術による機器を生活に導入することを拒んで、近代以前と同様の生活様式を基本に自給自足の生活を営んでいる信仰者たちです。

 アーミッシュというと、2006年10月、ペンシルベニア州ランカスター郡の小学校に「神を憎む」という32歳の男性が押し入り、児童や教師たちを銃で殺傷する事件が起こりました。地元に住むトラック運転手の男が自動小銃とショットガンを持ち、この学校に乱入し、まず教師や男子児童らを追い出し、教室内で6〜13歳の少女の足を縛り、次々と頭部などに発砲しました。「神を憎む」と言ったこの容疑者はそれより9年前に娘を亡くし、それから神に懐疑的になっていたそうです。男が押し入った時、13歳のアーミッシュのマリアン・フィッシャーさんという少女が自分よりも小さな子どもに銃口が向けられた際に、「自分を先に撃ってください、ほかの子は解放して……」と言って身代わりとなって射殺されました。そしてフィッシャーさんの妹も銃撃されるという痛ましい事件が起こったのです。幸い妹は負傷しただけで命に別状はありませんでしたが、この妹も「(姉の)次は私を撃ってください」と言ったのでした。

 ところがその後、アーミッシュたちは容疑者の家族に対しゆるしを与えました。少女たちの祖父は犯人に恨みを抱いていないことを表明し、犯人の家族を葬儀に招いたのです。それだけではありません。子どもたちを失った家族のための寄付金を募る一方で、事件現場で自殺した犯人の遺された妻や子どもたちのためにも寄付金の口座を開設したのでした。

 このことについて私がコメントする余地はないでしょう。この事実だけで皆さんの心で感じてほしいと願います。「愛とゆるし」これはキリストが私たちにくださった最大の贈り物です。子どもたち、そしてアーミッシュの人たち全体が身をもってキリストの愛とゆるしを実践しました。この事件では7歳から13歳の計5人の少女が銃で撃たれて死亡しました。亡くなった少女たちは小さいながらもキリストの愛を知り、この世のいのちだけが人生ではなく、天国に希望を抱いていました。そして身をもって神の栄光をあらわしました。後に容疑者の妻は次のような手紙を送りました。「私たち家族は皆さんの愛で、強く求めていた癒しを得ることができました。皆さんの贈り物に、言葉で表せないほど感動しました」。

 神がこの礼拝に招いてくださった皆さんは、実は、キリストの愛とゆるし、そして〈救い〉を知るために今までの人生を歩んでこられました。これが私たちがクリスマスを祝う意味です。皆さんが生まれてからいや、それより前からの歩みを神が導いておられたのです。だから、心配することはありません。小さなことに思い悩むこともないのです。キリストがお生まれになったこのクリスマスは、神は一人残らず闇の中から救い出してくださるという〈愛〉、そして私たちがこれまで過去にどんな歩みをしてきたとしてもそれを〈ゆるし〉、受け容れ、新しい人に造りかえてくださるということを知る日なのです。ですから私たちはもう闇を恐れることはないのです。そしてもう悪の力に負けることもないのです。

 飼い葉桶に生まれた主を見つめましょう。それが「あなたがたへのしるし」であると天使は今朝私たちにも告げています。キリストとともに、私たち一人ひとりの手にキリストの光を掲げて、今朝ここから歩み出しましょう。


 
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