2020.12.13

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「神の恵みを身に帯びて」

中村吉基

イザヤ書 61:1〜4ルカによる福音書1:39〜56

 クランツに3本目のろうそくが灯りました。今日は「喜びの主日」と呼ばれます。クリスマスに近づいてこれまでの紫ではなく、ほんの少しクリスマスの喜びを帯びたローズピンクのろうそくを灯します。イエスの母となったマリアは、突如天使のお告げを受けて、人々が長い間待ちわびている救い主の母となることを知らされます。私たちには想像できないほどの驚きと衝撃だったでしょう。しかしマリアはその信仰と神への従順をもってそれを受け容れるのです。これがいわゆる「受胎告知」の出来事です。その時、天使ガブリエルはなかなかこの事実を信じることができないマリアに一つの成就した出来事を伝えます。それがマリアの親類エリザベトの懐妊でした。今日の前の箇所、ルカ1章36〜37節で天使はマリアにこのように告げています。

「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。神にできないことは何一つない」。

 マリアは果たして天使が告げたことは本当のことだっただろうか。懐疑的になっていたことでしょう。今日の箇所の冒頭には「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい」(39節)とあります。天使のお告げは受け容れたもののまだ驚きと衝撃、そして興奮が収まらなかったのでしょうか。「そのころ」とはあいまいな表現です。しかし、手掛かりがあります。42節にエリザベトが「胎内のお子さまも祝福されています」となっていますのですでに妊娠の兆候を見せていたと思われます。

 マリアは当時10代であっただろうと推測されます。そのマリアの親戚にあたるエリザベトの住む山里に「急いで」向かったのです。この「急いで」という言葉は「熱心に」とも訳される言葉です。若さあふれるマリアが熱を帯びてエリザベトのもとに向かったのです。エリザベトの夫妻に子どもはなく、すでに年老いていました。そんなエリザベトに男の子が身ごもったなどとは信じられない気持ちでいっぱいだったでしょう。今であれば電話やメールで確かめることもできるかもしれませんが、マリアはエリザベトの住むユダの町までやって来たのです。

 エリザベトの家に入ってくるなりマリアは天使が告げたとおりエリザベトの懐妊したことが事実だと知るのです。エリザベトはマリアからお祝いの挨拶を受けたことでしょう。それを聞くや否や42節以下、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。エリザベトは聖霊に満たされてマリアをほめたたえました。

 その時にマリアから出た言葉は46〜55節に記されてある「マリアの賛歌」と呼ばれているものです。マグニフィカトあるいはマニフィカートという名前で昔からたくさんの音楽家がこれを歌にしました。私たちの賛美歌にも174番から179番までマリアの賛歌が収録されています。

「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。

 この「あがめる」という言葉が派生して「メガフォン」という言葉ができました。「大きくする」という言葉、私たち人間を造り、遥かに大いなるお方が小さな自分に目を留めてくださったことをマリアは「声を大にして」賛美しています。反対に私たちが自分の小ささに嘆くときはどんな時でしょう。誰か他の人が「成功」を収めた、誰かが自分よりも優れているという時に私たちは自分を小さく、みじめだと思っていないでしょうか。何で自分だけこうなのだろうと嘆いていないでしょうか。そして今の世の中の現実に目をやれば、「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」(51〜53節)などということの裏返しの出来事ばかり起きているのではないでしょうか。しかし、神はクリスマスの物語を聴いた私たちに、こんな小さな私に目を留めてくださるお方を「声を大にして喜びたたえる」ように変えられていくのです。

 実はいくつか残されている聖書の写本の中で、この賛歌の主語はマリアではなく、エリザベトになっているものがあります。近年になってこの賛歌は「エリザベトの賛歌」ではなかったかという議論もあるほどです。それは48節の「身分の低い」という言葉が長い間不妊に悩んできたエリザベトに重ね合わせられるからです。もちろん「身分の低い」=不妊ではありません。「苦しみ」とも「悩み」とも訳されます。しかし、この賛歌がマリアのものであるならば、マリアは不妊でもなく、苦しみも悩みもなかった快活な少女だったかもしれませんが、彼女は人の苦しみを自分の苦しみにしたのではなかったでしょうか。

 私たちもそれぞれの信仰を確かめて、マリアと同じ豊かさに満ち満ちた信仰の喜びを一心に受けたいと願います。マリアがエリザベトに挨拶をしたときに、エリザベトの胎内の子(のちの洗礼者ヨハネ)が喜び躍ったと44節には記されています。私たちは今年のクリスマス、本当の意味でのクリスマスを知るためにイエス・キリストを通してしか得られない本当の喜びを得る時としましょう。そして私たちがその喜びを知ったならば、今闇の中で希望を失って苦しんでいる人に神の救いはすべての人の上にあるのだと、今度は私たちがマリアのように急いでその人たちのもとへと行こうではありませんか。決して今からでも遅くはありません。

 マリアがしたように誰かに挨拶をし、祝福し、あるいは仕えて、ともに喜びを生み出し、そして救い主の降誕を迎えるために多くの人々に、今このような時にこそ「声を大にして」キリストにある希望を伝えてほしいのです。そしてエリザベトのお腹の中の子は「喜んでおどりました」とあるように一人でも今闇の中に囚われている人が救い主の光を見て、創り主なる神のもとに導かれることを願いつつ、私たちは行動しましょう。私たちの中にもすでに救い主イエスさまが宿っておられます。喜びを味わいつつ、今日からの新しい1週間を過ごしましょう。


 
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