2020.11.29

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「キリストを待つ」

中村吉基

イザヤ書 63:19〜64:8マルコによる福音書 13:24〜37

 本日から待降節(アドヴェント)に入りました。教会の1年の始まりの日を迎えました。待降節は11月30日に最も近い日曜日から始まり、12月24日までの4回の日曜日を含む期節です。ラテン語のアドヴェニオー(来臨する)からこう呼ばれるようになりました。クリスマスを待ち望むだけではなく、「終末」におけるキリストの再臨に備える時でもあります。アドヴェントに用いる典礼色は紫です。しかし第3主日には、ばら色を用います。ほのかにクリスマスが近づいたことを示す喜びの色です。アドヴェント・クランツに4本のろうそくを立てて、毎週1本ずつ増やしてこの期節を過ごします。4本目のろうそくが灯された日はクリスマスに最も近い日曜日になります。みなさん一人ひとりが自分自身を省みて喜びに満ちたクリスマスを迎えたいと願っています。

 今、お話ししましたが、待降節は主イエスの降誕を記念する日を待つだけではなくて、主イエスが歴史の終わりに再び来られること(再臨)を思い起こす時でもあります。その再臨の時は誰にもわかりません。神だけが知っておられるのです。「世の終わり」とか「終末」と聞くと何かオカルト的なものを感じる人もいると思いますし、世の終わりを告げようとした人はいつの時代にもいて、インチキだったことも多いわけですが、私たちの身近なところでもハルマゲドンの時期を示したカルト団体や1999年のいつに終末が来ると言って多くの人々を煽った予言を知っているかと思います。

 いずれもいい加減なもので、偽りでありました。今日の箇所の33節「その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」と主イエスが言われています。またこの13章の最初から世の終わりが必ず来ると示しておられるのですが、「その時は誰にもわからない」と主イエスが言い続けておられることも見落としてはならないでしょうし、これは大切なキーワードです。また「その日、その時をただ神が知る」と、賛美歌の歌詞にもありますが、「その日、その時」と言うのは聖書によく出て参ります。

 私たちは今2000年前の主イエスの降誕と世の終わりの再臨の中間期に生きています。世の終わりのことばかりに思いを馳せているよりも、今のこの時が大事な時です。今日の聖書の箇所は今、私たちが生きている現在という時に責任を持つこと、目を覚まして生きることこそが、同時に終わりの時を大切にすることになるのだということを教えています。

 今日からの1年間はおもにマルコによる福音書から礼拝において聴き続けていきます。しかし、今日の聖書の言葉を聴いて、このところ何回かマタイによる福音書から教えられた主イエスのメッセージに似ているのではないかと思った人もいるでしょう。それは世の終わりにキリストが再臨され、神の国が完成しますが、それに備えていつも油断しないように準備していなさいというものです。今日の聖書の箇所32節以下には「目を覚ましていなさい」という言葉が4回出てきます。それでは何に「目を覚ましていなさい」というのか、確かめてみたいと思います。

それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。(13:34,35

 ある人がしもべたちに仕事を頼んで、門番には注意を促して旅に出ました。しかしこの人がいつそこに戻ってくるのか、夕方か、夜中か、朝かしもべや門番にはわからないのですね。誰にもわからない。先ほど「その日、その時」のことは誰にもわかりませんと言いました。聖書によく出てくる「その日、その時」というのは「救いの時」を示す言葉です。神が人間に手を差し伸べて、ある年の、ある日の、ある時に(それを、神が選ばれて)神が私たちに救いを与えてくださって、私たちの涙は拭われて、苦しみはなくなり、罪赦されて、あたらしい「いのち」を与えてくださる時です。

 旧約聖書を通して読んでみると、自分たちを救ってくださるメシアがいつか必ずやってくると人々の心に深く、深く焼きついていました。だからどんなに絶望の淵に追いやられていても、自分たちが罪を犯そうとも、神殿が破壊されようとも、どんなに遠いところの土地に連れて行かれようとも、「その日、その時」を待ち望むことは人々の心からは消えなかったのです。それだけではありません。どんなに長く待たされようともその確信が失われることがありませんでした。救いの時が自分たちの世代で起こらなかったならば、次の世代にその希望を連綿と伝えていきました。親から子へ、子から子へと伝えられてメシア(救い主)を待ち望む希望は2000年にも及んだのです。

 2000年と簡単に言ってしまいますが、それは私たちが経験もしたことのないような歳月ですね。その間にはその希望を捨て去ってしまおうとするような絶望的な状況を何度も体験しなければならなかったのです。

 強靭なまでの旧約時代の人々の信仰ですが、それは今、中間期に生きて、再び来られるキリストを待っている私たちにも教えられることでもあります。私たちはいつ、どんな時に来られるかわからないキリストを備えながら待ち望む者でありたいと願います。果たして私たちは日常の生活の中にキリストをお迎えする準備ができているでしょうか?

 イエス・キリストは、み言に聴き、互いに愛し合い、助け合うときに私たちのうちに来てくださいます。私たちは普段の生活の中で主イエスと交わって、そして主イエスの再臨を待ち望む心、「いつも目を覚まして」待ち望む心を繰り返し、繰り返し、呼び覚ますのが待降節の課題です。

 旅に出たあるじ(=イエス・キリスト)はいつ帰ってくるかわかりません。「その日、その時」はだれにもわかりません。同じようにいつキリストが再臨されるかは誰にもわかりません。だからいつも「目を覚ましていなさい」と今日の聖書の言葉において主イエスは私たちに呼びかけておられます。しかしそうは簡単に待ち望めないようにされるのがこの世での私たちです。私たちの外から、あるいは心の中から神との関係を断ち切らせようとする悪の力があります。それには私たち自身をその悪の力から守らなければ、主イエスが来られる時に備えることはできません。さまざまな悪の誘惑を断ち切り、主イエスの教えに反するような生き方を捨て去ること、そして他者に対して愛の行い、奉仕を積み重ねていくことによって生きることこそ「目を覚まして」生きる生き方です。そのために、そのことを勇気を持って私たちが出来るように、皆さん一人ひとりがよく祈ってほしいと思います。祈る時間を一日の中で充分取ることこそ「目を覚まして」生きる一歩だと言えます。

 マザー・テレサがこのような言葉を遺しています。

「私たちが貧しい人々の中の最も貧しい人々、病気の人々、死にかけている人々、ハンセン病の人々、エイズの患者を見舞い、彼らに衣服を着せてあげたり、食物を与えてあげたり、慰めの言葉をかける時、それはイエスに同じことをしているのです」。

 マザー・テレサは1995年にニューヨークにエイズ患者のための施設を開いていましたが、そこでこのようなことがありました。

 ある日、家出をした青年が入所してきました。エイズを発症していました。彼は最もこの世で不必要な存在だと毎日のように思っていました。しかしシスターたちの献身的なケアによって彼は自分が愛されている存在であることに気づき、またこんな自分でも誰かのために生きている存在であることがわかってきました。そして素晴らしい死に方ができるまでに彼を変えていきました。他の患者さんたちもそうでした。ここで苦しみながら死んでいった人はいなかったそうです。あるとき青年が死に近づきました。でも死と必死に闘いました。シスターは「何か気がかりなことがあるのですか」と尋ねると青年は「父に許しを請うまではどうしても死ねないのです」と言ったそうです。シスターは急いで彼の父親の居場所を探し出して来てもらいました。まるで聖書にある「放蕩息子のたとえ」のようなことが起きたと言います。父親は「息子よ! 最愛の息子よ!」と青年を抱きしめて叫びました。息子は「許して」と言って父に詫びました。それから2時間して青年は死にました。

 私たちは先ほどのマザーの言葉にあるように、身の回りの苦しむ人に、悲しむ人に、病気の人、傷ついている人、貧しい人に愛を行うとき、主イエスはもうそこにおられるのです。そのことに気持ちを寄せながら、目を覚ましながら主イエスがこの地上に来られるまでの旅を続けて行くのが私たちキリスト者です。今日から新しい4週間の信仰の旅が始まります。主イエスに出会う旅に今、ここから出発しましょう。

 


 
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