2020.11.15

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「油断大敵」

中村吉基

アモス書 5:18〜24マタイによる福音書 25:1〜13

 今年は礼拝において主にマタイによる福音書から聴いてきましたが、教会の1年の終わりに差し掛かろうとしています。この時期には世界の終末に関しての主イエスの教えを聴きます。今日の主イエスのたとえ話はその一つです。しかし、真夜中に花婿が花嫁を迎えに来るというのは、私たちの国の結婚式の慣習とは少し違うようです。当時のイスラエル地方では夜、結婚式が執り行われていたようです。

 ここに10人のおとめが出てきます。この人たちは花嫁の介添人でした。花嫁の家で花婿を待って、花婿が着くと火を灯して、花嫁に付き添って花婿の家に行き、婚礼の広間に入る折に灯りをともしてエスコートをして宴席に加わっていました。ですからこのおとめたちは、それぞれにともし火を持っていました。私たちがコンサートの途中などでホールに入ると、暗くなった会場を係の人が小さなペンライトを出して席まで案内されることがありますけれども、そういう仕事をこのおとめたちもしていたのです。

  「そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった」とあります。ずいぶんと失礼な言い方です。ある聖書では「感性あるおとめ」と「感性のにぶいおとめ」と訳しています。そして賢い5人のおとめたちはともし火と一緒に、そのともし火に補充するための油を用意していました。一方、愚かなおとめたちは予備の油を持ち合わせていなかったのです。ところが花婿は待っていても待っていてもなかなか到着しません。そのうちこの10人のおとめたちは眠りこけてしまうのでした。

 そしていざ、「花婿が来た、迎えに出なさい」と叫ぶ声がします。おとめたちは皆そろって花婿を迎えに出ようと自分たちのともし火を整えようとしましたが、愚かなおとめたちのともし火は既にその時間までで消えそうになっていました。そこで愚かなおとめたちは賢いおとめたちにこのように言います。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」。そして賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と言います。愚かなおとめたちは慌てて店に買いに行ったことでしょう。真夜中ですから、店の人をたたき起こしてまでして油を買ったに違いありません。ところが時すでに遅し・・・・・・です。このおとめたちが油を買いに行っている間に花婿は到着をして、賢いおとめたちが介添えをして結婚式の宴の会場に入ってしまいました。そしていくら頼んでもあとから到着したおとめたちは会場に入れてもらうことができませんでした。

 さて賢いおとめと愚かなおとめの違いはどこにあったのでしょうか? もう皆さんはお分かりでしょう。それは油を余分に準備していたか、していないかの違いでした。賢いおとめたちは花婿が到着をしたときに自分たちが果たす役割をよく理解していました。その大事な役割を果たすために綿密な準備をしていました。予期しない出来事に対応できるようにもしていました。実際に花婿が待てども、待てども来ない、遅れて来るというハプニングがありましたが、そういうこともすべて見越して準備をしていたのです。

 「備えあれば憂いなし」という言葉がありますけれども、自分の大切な仕事、しかも花婿と花嫁にとっては一生に一度の婚礼の時を台無しにしないように心がけておくことまで怠らなかったのが賢いおとめたちでした。この賢いおとめたちも眠りこけてしまいます。しかしここではまったく彼女たちが眠ってしまったことについてはお咎めなしです。10人とも眠ってしまったのです。眠ってしまったことが悪いのではなく、十分に備えをして大切な喜びの祝祭を待つ、備えのある人は十分にゆったりした気持ちで「その時」を待つことができたことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。

 それでは愚かなおとめたちはどうだったでしょうか。彼女たちが自分の仕事を大切に考えていなかったわけではなかったかもしれないのです。けれども予備の油を持たなかったことは自分の務めを安易に考えていたことのあらわれかもしれません。もしも油が切れてともし火が消えてしまえば花婿たちを送っていく務めができなくなるばかりか、婚礼に出席することも叶わなくなります。彼女たちの心に隙があり、物事を見通せていなかったと言わざるを得ないでしょう。まさしく、「油断」していたといえます。

 今日の箇所で花婿というのは世の終わりに再び来られるイエス・キリストを指しています。またこれは私たちがやがていのちの終わりを迎えて、いよいよ神との出会いをするということのたとえとして捉えることが出来ます。いずれにしても私たちは常に備えながら主イエスが来られるのを待つのです。賢いおとめたちは頼まれても愚かなおとめたちに油を譲らなかったことを「冷たい」と思うかもしれません。また遅れて婚礼の席に行ったおとめたちをその席に招き入れなかった花婿を「薄情」だと思うかもしれません。しかしそう考えることは今日のたとえ話の意味を横道に逸らしてしまいます。神の前では失敗の言い訳をすることも、他の人のせいにすることも許されないのです。私たちの人生は自分自身で責任を持って負って行くということを主イエスは今日私たちに教えてくださっています。そして私たちが人生の歩みを終えるその時に「本当に良かった」と思える喜びが得られることができたら幸いです。

 マタイによる福音書では油によって灯される「ともし火」は「善きわざ」を表すたとえです。愛の心で善きわざを行う。ボランティアという言葉が日本でも定着しています。この言葉はラテン語のボランタール(自由な意志)、またフランス語では「喜びの精神」などという意味があります。私たちが自分の心からほとばしり出る自由な愛で他の人を愛していく。そしてこの愛を切らさないようにしながら私たちがいのちの終わりの日まで生きるのではないでしょうか。その時、神は私たちをほめてくださり、神の国での祝宴の席に招いてくださることを確信します。

 13節をもう一度読んでみましょう。

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから

 時をお造りになった神が私たちを迎えに来てくださる「その日、その時」を私たちは知りません。私たちはいつも、いつどのような時にも主イエスにお目にかかれる備えが必要なのです。主イエスが「目を覚ましていなさい」と言うのは、私たちの油、〈愛〉の心を無くさないようにという意味なのです。

 「目を覚ましていなさい」という今日の主イエスの言葉を読んだ時に、私は主イエスが十字架におかかりになる前にゲツセマネで神に祈られた記事を思い起こしました(マタイ26:36〜46)。その時にやはり、傍らで弟子たちが眠ってしまうのですが、主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われたのでした。

 私たちは心の中で想うことは簡単ですが、なかなか行動できない、一歩を踏み出せないでいるのです。しかし、目を覚まして、いつも注意深く、思慮深く、人には憐れみ深く生きるその先に神の祝宴の扉は開かれるのです。今日の箇所で「花婿だ。迎えに出なさい」と叫んだのはいったい誰の声なのか、福音書は書いていません。しかし、恐らくこれは神の声だと思うのです。

 油断とは油が断たれたと書きますが、私たちは油をいつも用意している人生でなければならない。「油断大敵」という言葉があります。「人生のことはそのうち考えればいい」「信仰のことはもう少し時間に余裕ができたら考えよう」。それではダメなのです。目先のことにとらわれて肝心なことを後回しにしてしまう。皆さんがどんな心を持って生きるのか、どんな生き方で神が与えてくださった人生を生きていくのか後回しにしてはいけないのです。

 皆さんがどのような人生を生き、何を信じていくのか。これは第一に考えるべき事柄であり、後回しにしてはならないことです。「主イエスが来られた、迎えに出なさい」と言われたときに私たちはすぐにともし火を整えて出て行く備えが出来ている者になりましょう。主イエスが再び来られるのが、いつなのかは私たちにはわかりません。だからこそ私たちはその日に備えて日々歩まなければなりません。私たちの毎日の生活に油が切れては前に進めません。油断してはいけないのです。

 


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる