今日の箇所は主イエスと律法の専門家やファリサイ派とのやりとりの延長線にあるところです。主イエスが彼らに鋭い批判をされます。彼らはイスラエル社会での宗教指導者であり、非常に高い地位にありましたが、実際の彼らの行いはどうだったかと言うと、教えていることとやっていることとに大きな開きがありました。つまり言動不一致、人には厳しいことを言っておきながら、実際に当人たちがそれを行っていなかった。ファリサイ派の人たちは律法を厳格に守ることを是としていましたがそれは神さまへの忠実な信仰から来るものではなく、自分たちのその姿を人に見られて、人からほめられて、自己満足さするためのものであり、信仰者としての本来の姿をまったく忘れていたといえます。
私たちの社会、国や地域やまた会社や小さなグループに至るまでリーダーという存在は必要です。全体のまとめ役、またさまざまな人が一つになって進んでいくとき知恵と力を持った進行役は必要です。しかし、人の上に立つ時に、人間の弱さが出てきます。他の人に命令をしたり、人を自在に動かせるようなときに、「自分はあいつらより偉いのだ」という思いや人を支配したいというような欲も生まれてきます。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」と言ったのは福沢諭吉でした。日本国憲法でも法の下の平等が謳われています。しかし、私たちの生きているこの世界ではあらゆるところで「偉くなりたい」という思いがひしめいていますし、そのために争いをするような愚かなことが繰り返されています。これは現代だけではありません。人間の歴史がそのような欲望に満ち満ちた歴史であったのではないでしょうか。
主イエスは特にリーダーになる人に、どのような心構えを持つべきなのかということについて話されました。
私は大学を卒業して、高校で働くことになり1か月前まで学生だった者が、すぐに「先生」と生徒たちから、あるいは先輩の教師、保護者から呼ばれました。最初はなんとなくしっくり来なかったけれど、1年くらい経つと何でもなくなってくるのですね。牧師の世界でもそうです。特に日本のプロテスタント教会では、最初の宣教師たちが公立学校で英語教師としても働かれていたこともあるためか、牧師のことを「先生」と呼びますね。教師という職業についている人にも耳が痛い箇所かもしれません。
ただそういう職業についている人であっても、主イエスが言われていることで大切なのは8節の「あなたがたの師はひとりだけ」そして10節「あなたがたの教師はキリスト一人だけ」というところにあります。絶えずこの時代の人はローマ皇帝を神として崇めなさいという脅威と現実にさらされていましたし、それを本来否定する立場にあったファリサイ派さえもローマの支配には勝てなかったのですね。そして神さまを崇めていたはずのファリサイ派の人々も自分たちが一般の民衆よりまさっているという驕り高ぶりがあったのですね。
そして私たちの唯お一人の教師であるキリストは、今日の箇所の最後にこう結ばれます。
私たちの救い主キリストは人の上に立って驕り高ぶるような指導者ではありません。友として、私たちと同じ目線で語りかけられるリーダーです。キリストの生涯を見てみればそのことがわかります。自分のことになんて時間を割いていませんでした。趣味も楽しみもなかったかもしれません。キリストが喜ばれるのは、神を愛し、人を愛すると言うことでしたし、倒れている者がいたならその人が再び立ち上がり、病気の人がいたならばその人が回復をさせられ、争いの中に平和をもたらし、そして神の国は互いに愛し合い築かれていくのだと一生懸命に教えを説かれました。その生涯は最後の一分一秒までも他者への愛に貫かれていました。
さてこのキリストの生涯に比べて私たちの生き方はどうでしょうか。私たちの中に、ここで批判されているファリサイ派の人たちのようなものがないとは言えません。「口で言うばかりでまったく自分ではやっていない」たとえば掃除をしましょうと言いつつ自分で箒一本手にしない人が自分ではないでしょうか。自分にできないことを人に要求したり、人に愛を求めながら、自分自分で愛することをしない。また、自分が人からどう見られるかばかりを気にして、毎日の生活、特に与えられた仕事において勝つか負けるかの競争のように感じて、本当に大切な人と人との兄弟としてのつながりを見失ってしまうことなどなど。このような態度は、神と人に対して良くない、というよりも、私たち自身がよりよく生きることを自分で妨げてしまっています。
主イエスの周りにいた人たちも私たちに似ているところがありました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11,12節)。しかし、主イエスの弟子たちの姿はこれとはかけ離れたものでした。彼らは「だれが一番偉いか」と論じ合ったり、少しでも人の上に立ちたいと願っていたのです。私たちはいったいどのようにしたらその欲望から解放されていくことができるでしょうか。
福音書で読んでみるとそのほとんどは主イエスの受難と関係しています。イエスの弟子たちが競争心や嫉妬心から解放されたのは、イエスの受難と十字架での死が現実になった後でした。「仕える者」「へりくだる者」となられたイエスの受難の姿がわたしたちの心に迫ってくるとき、私たちも、神の前で「きょうだい」として共に生きること、教師である主イエスの前での弟子としての平等であることを心から喜ぶことができるようになるのです。そのような体験を私たちもさせられるように祈るべきでしょう。
アメリカの「公民権運動の母」と呼ばれたローザ・パークスさんという方がおられました。マルティン・ルーサー・キング牧師のアフリカ系の人たちの差別との闘い、公民権運動はこのパークスさんが1955年にいわゆる「バスボイコット運動」によって逮捕されたことから急速に進んでいったのです。バスボイコット事件というのは、バスの中で黒人は後ろの座席、白人は前の座席、前の座席が混んでくると白人は黒人を除けて後ろの座席に座れる反面、黒人は後ろが混んでいても空いている前の座席には座れませんでした。この事件では、ローザさんが仕事(裁縫工)に疲れた夕方にバスに乗ったところ、後ろが混んでいたため空いていた前の座席に座りました。運転手は彼女に後ろで立つように言いましたが、あまりに疲れていたため動きませんでした。ローザさんは分離を定める州法違反として逮捕されました。5万人のアフリカ系の人、そして白人もこれに抗議して翌日からバスに乗るのをボイコットしたのです。この運動の指導者はキング牧師でした。
またトイレなども別々で黒人が白人用のトイレを使うと逮捕されました。新聞によると当時のアラバマ州では黒人の人が店で帽子を買うのもサイズを確かめるのも頭にストッキングを被らないと許されなかったそうです。帽子に肌が接触しないようにするためでした。列車に乗っても食堂車を使えない。エレベーターも黒人が乗るのは荷物用のものを使わされたそうです。学校も住宅も乗り物も生活のありとあらゆるところで隔離され、差別されていた。人種隔離法という法律でそうされていました。黒人の人たちがその怒りを表すためにバスに乗ることをやめてどこまでも歩いたのです。警察に銃で脅されても、つばを吐きかけられても暴力で相手を脅かすことなく徹底的に貫いた。中には暴力をもって抵抗しようとする人がいたようですが、キング牧師が説得をしました。ローザさんがバスの中で席を動かなければこの運動は始まらなかったし、キング牧師のように人の上に立つのではなく平等を説く指導者がいなければこの運動は成功しませんでした。翌年、アメリカでは連邦最高裁がアラバマ州の人種隔離法を憲法違反とする判決を下しました。
主イエスは今日の箇所で仰せになりました。
人に上下関係は本来ありません。私たちが人の上に立って何かをする時には最も低いところで仕える者になりなさい。私たちにとって真実の、ただお一人の教師である主イエスは今日私たちにこのように呼びかけておられます。そのみ言葉に対して私たちはどう応えるのでしょうか。