2020.09.06

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「きょうだいを得る」

中村吉基

エゼキエル書33:7〜10マタイによる福音書18:15〜20

 マタイによる福音書18章には一貫したテーマが全体を流れています。それは「小さいものたちに対する兄弟たちの配慮」を強調しています。実際に最初から読んでみると今日の15節以前に「子供」(2,3,4,5節)という言葉が4回、「小さな者」(6,10,14節)が3回、そして只今共に聴きました15節に「兄弟」が2回、ほかに21節35節にも出て来ます。18章の最初で 主イエスは

「はっきり言っておく、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」

と仰せになります(3,4節)。

 そして「小さな者」(6〜9節)とあるのは、主イエスを信じる「小さな者をつまずかせる者」について述べられるのです。主イエスはこう言われました。

「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)。

 第2次大戦の終わり頃、ナチス・ドイツに殺された神学者ボンヘッファーはこのような言葉を遺しています。

「罪を罪と呼ばない教会は福音にふさわしくない歩みをする。それは聖ならざる教会である。それは主の高価な赦しを浪費するからである」。

 主イエスは罪を見過ごされません。あいまいにされることのないお方です。「兄弟」という言葉は現代では「教会員」と理解してよいでしょう。実は今日の箇所の直前で主イエスは「迷い出た羊のたとえ」を話されます。罪を犯した「兄弟」は迷い出た羊そのものです。迷い出た者に対しては「小さな者」を愛して、大切に思う神さまの御心を知らせなければなりません。

 私たちがこのような場面に遭遇する時に、いつ、どのようにして本人に接して忠告しようか、戸惑いを憶えるのではないでしょうか。何が善いことで、何が悪であるのかの判断も委ねられるからです。そしてそのことによって人間関係がギクシャクするのを恐れます。私たちは一方で人の力を必要としながら、人との関わりの中で人を傷つけてしまうものです。「罪」という言葉の反対語は「愛」です。自分中心になるあまり、周囲の人を傷つける行為です。そのような私たちも罪を犯すたびに、人との関わりから排除されてしまうならば、最後まで残ることの出来る人はいないでしょう。「ゆるし」というのは弱さや欠けのある人間が共に生きていくためになくてはならないものです。

 そこで主イエスはこう言われました。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。

 たいへん珍しいことですが、今日の箇所には「教会」という言葉が出て来ます。福音書ではここと同じマタイ福音書の16章とに2回出てくるのですが、私たちの理解では、あのペンテコステの出来事によって教会が誕生するのですから、信じる者たちの共同体としての教会について生前の主イエスがお教えになるのです。ちなみにマタイ福音書には主イエスの説教が5つ収録されていますが、18章は4番目のものです。「教会」に連なる兄弟が罪を犯した。

 マタイの写本、とても有力な写本には「あなたに対して」という言葉が無いものがあります。そうすると少し意味が違ってくるのです。いずれにしても教会のメンバーが忠告をします。それはその人を滅ぼすためではない、兄弟を「得る」ためだと主イエスは言われるのです。その一度の忠告が聞き入れられなかったとしても、繰り返して忠告をしなさいとあります。一人の人がした忠告が効を奏さなかったならば、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」16節前半)。

 そしてそれでもこの「兄弟」が聞き入れなかったならば「教会」の公の場で忠告しなさい。まるで日本の制度と同じ「三審制」ですが、そのようにまですることの目的は、罪を犯した「兄弟」に恥をかかせようとか、非難や中傷することではなく、あくまでも兄弟を「得る」ことにあるのです。実は旧約聖書レビ記(19:17)にも、また主イエスが属されたと言われているクムラン宗団やダマスコ文書にも兄弟の罪を戒めるという規則がありました。けれどもユダヤ教のそれには「兄弟を得る」というような思いは込められていません。

 今私たちは「忠告する」という日本語でここを聴いています。この「忠告」という言葉には「光にさらす」という意味があります。つまり忠告するというのは決して一人も滅びないようにと今も願っておられる神さまの「光」で照らすのです。そしてこの「兄弟」の心がふたたび神さまの光(救い)へと向けられるように願うことです。しかしそれを受け容れない者にも最後まで粘り強く寄り添いなさいと主イエスは言われます。けれどもそれでも教会の告げる忠告に聞き従わないのであれば、当時他の神々に仕え、汚れているとされていた神の救いの外側にいると見なされていた「異邦人か徴税人」と同様に神に従わないものとすることがゆるされています。しかし決してこれは「突き放す」ことを意味しているのではありません。主イエスご自身が異邦人や徴税人の友となられたことをみれば明らかです。

 「教会」は神の御心を行います。教会の判断は神の判断です。けれどもそのことには細心の注意が必要です。松本敏之牧師はこう言っておられます。「魔女裁判など、教会はイエス・キリストの名によって誰かを断罪するということをしばしば行ってきました。本人は正義感でやっているとしてもとんでもない間違いを犯してきました。…教会は、…いつもその間違いを注意深く謙虚に吟味すべきでしょう。特に戦争に関わることは要注意です。終わりの日には教会もまた裁きの座に立たなくてはなりません」(『正義と平和の口づけ』)。

 数日前に教会に一冊のパンフレットが送られてきました。その中には「反同性愛」「反LGBT」の内容が書かれてありました。この教会にだけ送られてきたのかと思っておりましたが、あちこちの教会に送りつけられていました。送り主は数年前から私を名指しで批判するようなサイトも運営しております。私はこれを読みましたが、偏った見方から書かれたひじょうに悪質なものでした。これを読んだ方々が、それをさも「教会」の判断だとしてしまうことはとても恐ろしいことなのです。

 私たちはいつも主イエスの視点、神さまの御心を「問わなければ」なりません。なぜなら主イエスこそが教会の中心だからです。教会は建物ではない、組織でもない。ましてやその規模でもありません。私は前に遣わされていた教会の牧師をしているとき、しばしば見当違いなことを耳にしました。「会堂を持っていない」「牧師館がない」ことでさも教会の価値をはかるかのような「批判」があったからです。信徒の数が少ない教会は力のない教会なのでしょうか? 聖霊が働かれない教会なのでしょうか? これは教会を見る目が世俗主義、物質主義に走ってしまった末期症状でしょう。

 すべての教会は今日の主イエスの御言葉にあるように、

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

ということを信じなければ滅んでしまうのです。主イエスが中心に、主イエスが真ん中に立っておられる教会です。そして主イエスはどんな小さな者でも一人も滅びることがないように、という神さまの御心が実現するように、罪を犯した兄弟に忠告することを願っておられるのです。

 私たち人間はさまざまな欠点を持っています。またいろいろな失敗もたびたびします。教会とは主イエスの御言葉に従い、互いに戒めあって、支えあって努力していく共同体です。私たちはそれをたえず行っていくことによって本当の兄弟、姉妹になることができるのです。どんな事柄でも教会員たちが「つないだり」「解いたり」することが祈りつつなされて、一致してこのことを行うならば天の神はその決定を祝福してくださるのです。


 
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