2020.08.16

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「聞き入れられる祈り」

中村吉基

イザヤ書56:1、6〜7マタイによる福音書15:21〜28

 牧師としていろいろな方から、さまざまな時に「祈ってほしい」とリクエストを受けることがしばしばあります。牧師をしていて嬉しい瞬間でもありますが、、どの方もその祈りに関して真剣な思いを抱いています。自分だけではなく、他の人にも、そして教会の牧師にも祈ってほしいと言われるのですから余程の強い思いがその祈りに込められています。

 今日の箇所の中に出てくるカナンの女性の祈りは「悪霊に苦しめられている娘を癒してほしい」というものでした。当時は、悪霊が病気を引き起こす原因だと考えられていました。この女性の娘の病気がどのような病気なのかは判りませんが、その願いは「必死である」ことは間違いありませんでした。

 しかし、なぜでしょう。主イエスの振る舞いはとても冷たい態度に感じられます。23節はこのように記しています。

「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」。

 弟子たちは主イエスにこう言いました。

「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。」(23,24節

 このことを読み解く前に少し前の21節から読んでみますと、

「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」。

 主イエスは神の国を宣べ伝えるために、ガリラヤ地方をめぐってユダヤ人に教えておられました。しかしながらファリサイ派や宗教指導者たちからの反発を受け、一旦ユダヤ人の住む地方を離れて、異邦人(外国人)の住む地方へとやってきます。ここに出てくるティルスとシドンというのはその異邦人の地方でした。そしてここで生まれたカナンの女との出会いがあります。カナン人は以前イスラエルに偶像崇拝の悪習をもたらした異教の民として、ユダヤ人から決してかかわりを持ってはいけないと差別されていた民でした。(参照、創世記9:25,26「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ」)。

 彼女は21節「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と言います。これは主イエスに全幅の信頼を寄せて言った言葉です。

 ところが主イエスのカナンの女性に対する答えは、まるで人種的な偏見を露わにするように聞こえてきます。24節には「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」。

 まるで外国人には救いはない、と言わんばかりです。そして彼女の苦しい訴えを無視しようとさえされているようで、ここを読む私たちは穏やかに読むことができないのではないでしょうか。弟子たちは彼女を追い払おうとします。しかし彼女は主イエスの前にひれ伏します。

 「主よ、どうかお助けください」25節)。けれども、主イエスは「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と言われました。つまり子どもたちと言うのは「イスラエルの民」、小犬というのは「外国人」。イスラエルの人々の救いを外国人に授けるわけにはいかない、とはっきりと拒絶するのです。

 しかしこの言葉はカナンの女性には、決定的な打撃にはなりませんでした。皆さんが主イエスにこんなことを言われたらどんな気持ちがするでしょうか。試練でしょうか。望みが絶たれてどん底に落ちるような気分になるでしょうか。しかし、彼女は決して引き下がろうとはしません。主イエスの言葉を取って返し、たしかに自分は小犬かもしれない、しかし小犬だって食卓から落ちるパン屑はいただくのです。と言い切りました。

 主イエスは、強靭な信仰の持ち主である彼女に心を動かされ、大いに感銘されます。そして即座に彼女の祈りは聞き入れられるのでした。

 神はすべての人の救いを望んでおられます。ですからユダヤ人はいいけれど、外国人はダメだ、というような差別はありません。ただ、神は救いを具体的な出来事とするために、ある特定の時代と場所と民を必要とされました。すべての人の救いをお望みになる神によって選ばれたのは弱く、小さなユダヤ人たちでした。

 今日の旧約聖書はイザヤ書の56章が読まれましたが、この6,7節にこう書いてあります。

「また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。

 神の救いはイスラエルに留まらず、異邦人にも向けられることは、イザヤの時代から知られていました。それはまずイスラエルの救いが実現してから起こることになっていました。主イエスが復活をされ、昇天されたのち聖霊が与えられ、教会の基礎となる共同体が築かれて、すべての国の、すべての人に救いが広げられていきます。主イエスは決して外国人に敵意を持っているのではありません。ただ神の救いの計画に忠実に振る舞っているのです。

 今日私たちは、カナンの女性の見事なまでの信仰に倣いたいと思います。私たちは自分が苦しいときには、神が祈りを聞いてくださらず、無視されているような気持ちにならないでしょうか。あるいは自分の祈りが退けられたと勝手に思い込んではいないでしょうか。しかしそれであきらめない祈りは必ず聞き入れられるでしょう。神は私たちの人生にハプニングをお与えになります。どんなマイナスもプラスに変えてくださるのが神です。今、祈る……祈り続けることこそが、私たちに求められていることです。

 昨日は敗戦記念日でしたが、私は毎年8月15日に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で朝7時から行われるキリスト者が集まる平和祈祷会に参加しています。34年前、私がまだ10代の学生だったころに、神戸から東京に来てこの祈祷会に参加しました。その当時の中曽根首相が靖国神社に公式参拝したのです。政治の大きな力で私たちにどうすることもできないようなことでも「祈ること」はできるだろうと参加したのを憶えています。

 今、私たちの日本は平和を打ち壊そうとする力が働いているように思います。多くの年配の方々が、「今の時代は第2次大戦に突入する前の時代によく似ている」と言われた言葉が頭の中をよぎります。戦争をしない、平和を大切にする日本になるように私は今、祈らざるを得ません。小さな祈りではあるかもしれませんが、カナンの女性のように決して引き下がらない、あきらめない祈りが神様に届くとき、どうすることもできない状況に風穴を開けていくのだと信じています。


 
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