2020.06.21

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「恐れるな」

中村吉基

エレミヤ書20:7〜13マタイによる福音書10:26〜33

 

 今朝、こうして久しぶりに役員の皆さんと礼拝を捧げることができまして感謝しております。まだすべての方と共に礼拝をお捧げできるのは先のことになりますが、私たちは今、希望の中にあります。礼拝の招詞はエレミヤ書33章6節の御言葉でした。「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」この神の御言葉は真実です。信じるものは心の中で「アーメン」と応答してください。必ずや実現するでしょう。

 今朝私たちには「恐れるな」という御言葉も届けられました。
さて皆さんは、これまでに家族やお友達に聖書の話をしたり、教会にお誘いになったことがあるでしょうか? あるいは自分が教会に通っていることや聖書を読んでいること、また神様や主イエスを信じていることを人にお話しになったことはあるでしょうか? その時の反応はどうだったでしょうか? その話に家族や友人は耳を傾けてくれたでしょうか。中には快く思わない人がいたかもしれません。

 宗教だということで警戒されたり、冷ややかな視線や無関心に受け止められたこともあるかと思います。いや、むしろそういうときのほうが多かったのではないでしょうか。世の中はそういうものです。人の心が硬くなってしまって、神を神と思わないような人々がほとんどだといっても過言ではありません。教会も一生懸命その存在をアピールしようとします。

 私たちの教会はこの大都会の真ん中でそれをしています。教会は外に掲示板を掲げています。ホームページを運営しています。特別な集会があればチラシを配布します。そうしてこつこつと皆で力を合わせて種まきをしています。皆さんお一人お一人も代々木上原教会の大切な一部分です。しかし、そんな中で、そのほとんどは無視され、拒絶され、人の心の硬さにぶつかったり、あるいはむなしさを経験することがあります。もう何度も同じ目に遭ってめげてしまうことさえあります。

 でも教会がそれをやめないのはどうしてでしょうか。主イエスのご命令だからでしょうか。主イエスのご命令だってそれを受けたときは張り切っていても、困難に何回もぶつかっていればあきらめてしまうのではないでしょうか。しかし、「わたし」というこの人間を愛してくださった、必要としてくださった、立ち直らせてくださった神様のことをどうしても伝えずにはいられない。そんな思いに立って私たちは前を向いて神様のこと、主イエスのことを自分の隣りにいる一人の人に伝えていくのではないでしょうか。

 今日の福音は先週に引き続き、12人の使徒を宣教に派遣するにあたっての主イエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人を癒す使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10:14)、迫害を受けることが避けられない(同10:17〜23)ことを主イエスは予告します。決して脅しているのではないのです。宣教するということは「狼の中に羊を送りこむようなものだ」と言われるまで困難や迫害が実際問題として待ち受けていました。そして、その中で使徒たちがどのような態度を取るべきかということがこの箇所で語られています。「恐れるな」という言葉が3回繰り返して出てきます。実は、主イエスはこれから使徒たちの歩みが難航することを予測していましたから、その行く先々には多くの難題が降りかかってくることを見抜いておられました。

 今日の旧約聖書の朗読で預言者エレミヤが出てきました。
エレミヤは紀元前7世紀末から6世紀のはじめにかけてエルサレムで活動した預言者です。エレミヤ書1章には、エレミヤが預言者として神様の選び(召命)を受ける場面が描かれています。神様とエレミヤが話をしながら、場面は進んでいきます。その時、神様の言葉は圧倒的な力を持ってエレミヤに臨んできました。神様はエレミヤが母の胎内に造られる以前から知り、そこから生まれ出る以前に聖別していたと語ります。そして、その職務は預言者、それも諸国民の預言者であると告げられるのです。

 エレミヤにしてみれば、この神様の呼びかけを突然受けてびっくりしてしまうのです。そして「わたしは語る言葉を知りません。…若者にすぎませんから」エレミヤ1:6)と預言者になることを断ります。私は本当に知恵も力もない、若僧であることを正直に言うのです。「若者」(ヘブライ語でナアル)という言葉は「男の子」とも訳される言葉でもありますが、成人するのが早い古代社会では、まだ彼は20歳未満の青年であったでしょう。そのような若者に向かって、激動する諸国民の世界の中で、彼らの将来を見据えながら、彼らと運命を共にせよと神様は命じるのです。それを前にしてエレミヤがひるみ、たじろぐのは言うまでもありません。エレミヤという人は、内向的で、繊細で、感情豊かであったようです。そして何と言っても彼は傷つきやすい人でした。神様は彼に誰のところにも神様の言葉を携えて、行って、命じることをすべて語れと言われます。

 このエレミヤに、同胞を助けようとして挫折をしたモーセが同じように神様の呼びかけを拒むという場面を私は思い出します。しかも、エレミヤはモーセの時と全く同じ言葉で神様に励まされました。「恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」同1:8)と言う言葉です。こうして彼は神様から召し出された預言者として立ち上がりました。そうです。主イエスが使徒たちに言われたあの「恐れるな」という言葉と同じことを遥か昔のモーセもエレミヤも語りかけられていたのです。

 ところが今日の箇所の冒頭のエレミヤ書20章7節のところで、エレミヤは自分が神様に〈惑わされた〉者であると言ったのです。 この〈惑わす〉という言葉はヘブライ語では元来人が人を誘惑する意味で使われている言葉であります。神様がエレミヤに与えた使命によって「あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました」と告白をするのです。

 ではエレミヤはどうしてこのような気持ちに至ったのでしょうか。神様に誘惑された、うまく言いくるめられたと衝撃的な告白をしました。また神様からの召し出しを同じ7節「あなたの勝ちです」と言っています。しかしエレミヤの現実は一生懸命、預言者として神様の言葉を人々に伝えても「一日中、笑いものにされ」嘲られることなのでもありました。

 エレミヤはその口を開いて、南ユダ王国を始めとする諸国の危機を語るたびに、指導者や有力者に対して、その不法や暴力を批判しました。外敵の攻撃を神の言葉を預言し、告げ知らせ、国内の不正を批判することは、彼に迫害と人々の嘲りの笑いをもたらしました。 9節に「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい」と溜息のように告白する場面があります。エレミヤが預言者としての使命を投げ出して神様の言葉をもう語るまいとしても、ますます神様の言葉は彼の心の奥底にあって消すことのできない火のように燃え上がりました。そして「わたしの負けです」と言うのです。

 今日のエレミヤ書の20章10節「恐怖が四方から迫る」と言うのはかつて彼が「北からの災い」を警告するために使った言葉です。それが実現しなかったために人々は物笑いにして言いました。今やエレミヤが四方から迫害を受ける立場にありました。 しかし、11節はここから一転「主は恐るべき勇士として/わたしと共にいます。」とエレミヤは言います。主がわたしと共にいてくださるゆえに迫害者はエレミヤに勝つことはできない。12節においても迫害する者への復讐が求められています。それは決して外面的な復讐ではなく、悪に手を染める人間の心の奥底の姿に照らして神様は報いるお方であるということがここでエレミヤの祈りとして告げられているわけです。エレミヤは「わたしに報復させてください」とは言いませんでした。12節「わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします」。自分が手を下すのではなく、神様がそれをとりなしてくださるのを待つという姿勢です。これは今戦争をしている国の指導者に聞いてほしいことですね。決して「善はたたかわない」のだと。預言者にとって大事なのは敵が滅びることではないのです。神様の正しさが示されることなのです。

 エレミヤは苦しみの人生のなかに預言者としての任務を果たしていきました。実はこの聖書の箇所以外に4回もエレミヤは神様に嘆きの叫びを上げています。実際にはもっとたくさんの嘆きがあったかもしれません。彼が何度願っても、神様は一見、迫害者たちから守ってくれるようには、どうしても思えませんでした。ではエレミヤの苦しみの最中、神様はどこにいたのでしょうか?

 神様は思わぬ形で共にいてくださったのです――エレミヤが苦しみの嘆きを上げるとき神様も隣りで一緒に苦しめられていたのです。何度も何十度も神様は苦しんだのでしょうか? ですから、エレミヤは遠慮もおそれもなく、神様に嘆き、弱音を吐き、訴えたのでした。

 さて私たちもイエスの「使徒」の一人として、この世界に派遣されています。皆さんは「13人目の使徒」です。最初にお話しましたように、この現代社会には主イエスの教えに反する価値観や物の見方が多くあります。宗教もキリスト教だけが絶対とされるのではなく、何かを信仰している人々が共に手を取り合って平和な世界を待ち望むことは大切なことです。しかし、この平和を破壊するような、それは主イエスの神の国の教えに真っ向から反対する勢力があるのも事実です。

 私たちも神様から宣教の命令を聴いてもそれに応えず、ぐずぐずしていればこのような苦難に遭遇しても簡単に逃れられるかもしれません。そうすれば「すべての人に憎まれる」というようなこともないでしょう。言い換えるならば、私たちが与えられている信仰を極めて個人的に自己満足の領域にとどめていたり、教会に通うことを、教養的に聖書を勉強するかの如くにするならば、信仰を理由に苦難を受けることは比較的少ないでしょう。しかし、エレミヤや12人の使徒たちはそうはしませんでした。そうしなかったからこそ、神様の言葉は歴史の中で消えることなく現代の私達に伝えられたのです。

 私たちが使徒としてこの現代で生きていくならば、時には激しい反発や敵意、批判にさらされることを覚悟しておく必要があります。神様のみ言葉、主イエスの福音を決して自分の心の内側にそっとしまっておいて、消してしまうようなことのないようにしてほしいと願います。勇気を持って公にして言葉と行いでこの社会の中で証ししたいのです。

 「恐れるな」。主イエスは今朝皆さんに語りかけておられます。


 
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