教会ではよく「チチ ト コ ト セイレイ」という言葉を聞きます。初めて教会にいらっしゃった際に、いったいこの言葉は何のことだろうか、と思った人もいるかもしれません。今日私たちは三位一体の神を祝って礼拝をささげています。特段、三位一体ということを意識しなくても、私たちは毎週神様を礼拝しています。そして今日は、父と子と聖霊の三位一体の教義が制定された記念日でもありませんし、先週私たちは教会の三大祭りの一つであるペンテコステを祝ったばかりです。その翌週になぜ「父と子と聖霊」の神を記念するのでしょうか。そして今日、三位一体主日は「期節の変わり目」でもあるのです。
教会暦では今日を境に新しい期節に入るのです。私たちは半年前に、イエス・キリストの降誕と再臨を待ち望む待降節(アドヴェント)を迎え、そのあと主イエスの降誕、公現、洗礼の出来事を憶え、そしてしばらく主イエスの公生活の記事を読み、2月に受難節(レント)に入りました。レントの間は主イエスの受難を憶え、イースターを祝い、そのあとは復活の主イエスの足取りを憶えました。そして先々週、主イエスが天に昇られる記事に聴き、先週は残された弟子達に聖霊が与えられて、教会の誕生を祝ったのです。
このようにアドヴェントからの半年間は「主の半年」とか「キリストの半年」と言います。主イエスの生涯の歩みを辿りながら礼拝をささげてきました。神様の愛のご計画、イエス・キリストの生涯、そしてペンテコステで聖霊を与えられた、というこの半年間の締めくくりの日曜日が今日の三位一体主日です。
そして今度の日曜日から今年のアドヴェントの第1主日(11月29日)までは「教会の半年」と呼ばれる期節に入ります。いわば、クリスマス、イースター、ペンテコステという三大祭りを中心に主の半年は教会の祭りの期間を過ごしてきましたが、これからの半年は教会暦のお祭りの無い期間(無祭期)です。この教会の半年は、ペンテコステで聖霊を受けた教会が主イエスの呼びかけに応えて、この世界に福音を宣教していく、という期間です。ですから教会暦の祭りは無くても、世界の教会で広く守られていたり、日本キリスト教団が独自に定めている「行事」がこの半年間には守られます。8月の平和聖日や10月の世界聖餐日、神学校日、11月の聖徒の日などが「行事」にあたります。
さて、話を戻しまして三位一体の神様とは何だろうかと思われるかもしれませんが、「父と子と聖霊」の神様とは、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という意味です。しかし、この神様は3人の神様がいるというわけではありません。
例えば、一人の女性がいるとします。この女性は家庭を持ち、また学校の教師の仕事をしているとします。この人が夫にとっては「妻」です。しかし子どもたちにとっては「母」です。そして学校に行って生徒たちにとっては「先生」なのです。しかしここでは妻、母、教師という3人の人がいるわけではありません。この女性は一人なのです。三位一体もこのように神様を理解すると良いでしょう。そして教会は2000年の間、父と子と聖霊の神を三位一体の神として礼拝をし、賛美を捧げてきました。
まず「父なる神」とは、この世界を創造され、私たち人間をはじめとする〈いのち〉の創造者です。私たちの親であると言えます。そうすると私たちは神様の子どもです。神様は私たちの完全なる親として、いつも私たちのことを気にかけておられ、たとえ自分を誰もが理解してくれなかったとしても、神様は今この時も私たちを大切にしてくださいます。そして神様は私たちを神の国へ招きいれてくださるお方です。私たち今、存在しているのはこの神様に向かって、神様とともに生きるため、私たちは神様のパートナーであり、神の国を目指しての長い人生の旅をしている途上であると言えます。
ここで一つ私たちは注意をしなければなりません。私たちが「父なる神」というときに、それがあたかも神様が男性であるかのように理解するということです。性を持つのは神様が創造された被造物、つまり人間や動物などです。神様は霊なるお方ですから、身体を持ちません。そして神様や天的存在(天使など)は性を持たないのです。聖書の中には神様のことを女性に譬える箇所もあるほどです。
という聖句や、同じイザヤ書66章13節には
という箇所もあるほどです。そして私たちが神様を「父」(あるいは「母」「親」)と呼ぶことができるのは主イエスがそのように呼ばれたからなのです。
その神様の「子」である、イエス・キリストは私たちと同じ人間の姿をとってこの地上にお生まれになりました。なぜ主イエスが私たちと同じ人間になって、この地上に来られたのか。それは親である神様を人間に伝えるということでした。神の国に人間はどうしたら入ることができるのか。どうしたら神のもとに行くことができるのか。主イエスはその言葉と行いを通して私たちに示してくださったのです。病気に苦しむ人がいたならば、そこに近寄って癒し、悲しむ人に近寄って、優しい言葉をかけ、励まし、貧しい農民たちのところにも近寄って神の国の素晴らしさを教えました。
主イエスはいつも親である神様と一致して生きておられました。ですから言ってみれば、主イエスの言動を見れば必然的に神様がどういうお方かが判るのです。こうして私たちは主イエスを通して親である神様のことをより一層知ることができたのです。主イエスは神様のご計画のうちに苦難を受け、十字架で殺されます。それは世界中の人間の苦しみや悲しみを一身に受ける初穂と成られたのです。神様は主イエスをよみがえらせ、復活の主イエスは天に昇られました。そして今は神様とともにおられるのです。それゆえに私たちは主イエスのことを「子である神」と呼ぶのです。
そして「聖霊」は神様と主イエスが私たちに遣わしてくださったお方です。聖霊は私たち一人ひとりのうちに働いてくださって主イエスの教えてくださった生き方に招いてくださいます。私たちが道を踏み外そうとしても聖霊は軌道修正してくださいます。あるときは腕を引っ張り、あるときは背中を押して、私たちを支えてくださる神様です。そして親である神様が招いてくださる神の国へと導いてくださいます。聖霊の助けなしに神様と私たちは一致することができません。このようにして三位一体の神、父と子と聖霊はそれぞれの役割を持ちながら完全に一つであられるのです。私たちが信仰生活において「父と子と聖霊」というときにはこの三位一体の神様の素晴らしい働きに希望を持っているのです。
そして今日の聖書の箇所は神によって復活させられた主イエスが11人の弟子達を励まして宣教に派遣する場面です。マタイの福音書では触れられていませんが、マルコの福音書ではこのあと主イエスは天に昇られます。16節から読んでみましょう。
弟子達は復活の主イエスにお会いして、ひれ伏し、中には主イエスの復活を疑うものもいたと聖書は告げています。仕方のないことかもしれません。しかし、私は、疑う者もそのあと真の主イエスだということがわかったのではないかと思うのです。それはそのあとすぐに「イエスは近寄ってきて言われた」とあるからです。
先ほども主イエスが、病気の人や悲しみのうちにある人、そして貧しい農民たちに「近寄って」行かれたことをお話しましたが、この「近寄る」という行為を見た、疑っていた弟子もその仕草に主イエスだと認識したのではないでしょうか。ちなみにこの「近寄る」(プロセルコマイ)という言葉は新約聖書に86回出てきます。そしてそのうちマタイの福音書には51回出てきますが、子である神、主イエスが御自ら近寄られるということは、神様もまた遠く、そして高いところに鎮座しているような神ではなく、人と人との間、私たちの間に立ってくださって同じ目線で愛の言葉、憐れみの言葉をかけてくださる神様です。
そして主イエスは弟子達に
と三位一体の名で洗礼を授けることをお命じになりました。
洗礼を受けるということはどういうことでしょうか。それは神様の子どもとされるということです。そして私たちは神様の家族の一員にもされることです。フィリピの信徒への手紙3章20節に「わたしたちの本国(国籍)は天にあります」と書かれていますが、神様の本当の家族として登録されるのです。そして洗礼の水によって私たちの負い目を洗い清め、主イエスの死と復活に示された新しいいのちに私たちは生きるのです。また教会にあっては既に主イエスを信じている人々、天にある信仰の先達とともに結ばれるのです。
マザー・テレサはかつてこのように言いました。「自分は神様の手に握られた小さな鉛筆のようなものです」。神様が御手を動かされてその小さな鉛筆で字を書かれる。それと同じように私たちにとって大きな存在である神様が私たちとともに生きてくださる。父・子・聖霊の三位一体の神とともに、新しい日々を歩み始めましょう。
今日、主イエスは皆さんに仰せになりました。
「あなたがたは行って……」です。
あなたがたはそこに「とどまって」ではないのです。かつて主イエスに癒やされた中風の男は「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(マルコ2:11)といわれるとスッとそこを立って出ていきました。
主イエスは今日私たちにも出かけて行って神の国を伝えなさいと仰せになっておられます。
(祈り)
今日、特にご自分が洗礼を受けた日のことを思い起こしましょう。未だ洗礼をお受けになっておられない方は、いつの日かこの恵みに与られることをお勧めします。