2020.05.31

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「聖霊の力にあふれ」

中村吉基

エゼキエル書37: 1〜14使徒言行録2: 1〜11

 皆さん、ペンテコステおめでとうございます。

 先日、仏教系の伝道新聞を読む機会がありました。たいへん素晴らしい編集がなされておりまして、現代人に慰めを語りかける内容でありました。しかし、いくつかのところで、私の知らないことばにぶつかりました。これはすべていわゆる「仏教用語」でありました。私は意味を推測しながら読み進めたのですが、果たしてその推測が当たっていたかどうかは分かりません。それぞれの宗教にはその歴史の中で培われてきたことばがあり、それだけではなく、それぞれの国や地方に固有の言語や方言があるものです。それを一律に共通化してしまっては面白みも相手を理解する心も失われてしまうでしょう。

 けれども私はその時ふと思ったのです。もし初めて教会に来られた方が、意味不明のことばにぶつかったならば、きっと初めて来られる方というのは相当緊張していると思うのです。そういう方が難解なことばにぶつかるのは余計に緊張させてしまうのではないか、ということでした。たとえば「ゴザイテン(御在天)の神様」とか、「キトウ(祈祷)を捧げます」とか「ショウエイ(頌栄)の○○番を歌いましょう」などなど、案外教会に集っている人ではない人が聞くと分からないことばを使っているのではないでしょうか。

 それだけではありません。教会にはさまざまな母国語を持った方々がやってきます。日本の教会だから日本語さえ通用すればよい、というのは間違いです。私たちの国には、在日朝鮮人の方々が多くおられ、またアイヌ民族、沖縄の方々など固有の「ことば」を持っておられる方々もおられます。ある地方に行って、地元の人々が話していることばを理解できなかったという経験はないでしょうか。そのようにさまざまな「ことば」を持った人々が日本ひいては世界中に息づいているのです。

 教会に来られるのはこういった方々ばかりではありません。子どもたちも来ます。その中には言語を理解しえない嬰児もいるでしょう。また、目の見えないかた、耳の聴こえないかた、ことばを話すことの出来ないかたもおられます。しかし、このかたがたもそれぞれがそれぞれの方法で、「ことば」を持ち、その「ことば」に生きている人たちです。

 私たちが外国に行く時、ことばの壁を感じます。それほど遠くに行かなくても、若者のことば、年配の方々の言う「ことば」が判らないことがあります。私たちは自分たちに親しみのないものに触れたときに、「引いて」しまうことがあります。違和感を感じると言うか、寂しい感じがしたり、時には不快感までもよおすことがあります。それでは「ことば」とはいったい何なのでしょうか。

 ひとことで言えば、その人の歴史、価値観、考え方がそこに表れています。もう少し簡単に言えば「その人自身が背負ってきたもの」が「ことば」になっています。その「個」が国単位、民族単位となっていった歴史があります。私たちが知らない、聴いたことのない「ことば」というのは当然異質なものと出合っているのです。そしてその時の戸惑いはことばの意味が判らないからというものではなくて、異質なものへ触れることの恐怖とか不安なのではないでしょうか。

 今日私たちはペンテコステを祝っています。先ほど、聖霊降臨の出来事を描いた使徒言行録2章の記事に聴きました。さまざまな「ことば」――それは人々の価値観、大切にしているもの、考え方などの異なる世界に2000年前にまず、イエス・キリストがお生まれになりました。主イエスは小さな村にお生まれになり、豊かな家の子どもでもなく、一冊の本を書いたわけでもなく、定職に就いていたわけでもなく、高等教育を受けたわけでもありませんでした。十字架に架かられるまで田舎のガリラヤ地方を出たこともなかった。何か賞をもらったり、取ったりしたこともなく、この世の業績になるようなことは何もされませんでした。しかしです・・・・・・。

 主イエスの「ことば」を聞きさえすれば、誰もが「ああ、神様ってこういうお方なんだ」ということが判るようにしてくださいました。そして主イエスが指し示された神様は私たちのことを愛しておられる。どんな価値観や考え方を持っていてもいい、誰もがもれなく神様に愛されている存在なんだ、ということを主イエスは「みことば」を通して教えてくださいました。言うなれば主イエスは人間の「共通語」としてこの世に来てくださいました。そして主イエスの「ことば」の伝え方は、ただただ難しい単語を並べ立てて、長々とレクチャーするのではないのです。それを聴いている人々もありがたーいお言葉を(意味が判っても、判らなくても)聞き流しているのでもない、主イエスは人々と同じ目線に立って「みことば」を語られました。それだけではなく、主イエスの行動や生き様からさまざまな「みことば」が伝えられたのです。

 そして主イエスがかねてからされていたお約束のとおりに、五旬祭の日に、神様によって聖霊が送られました。聖霊が降った時、何が起きたでしょう。

「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。

 そうです。聖霊によって異なった「ことば」に生きていた人たちが、理解し合って生きる道が開かれたのです。それはただ単に自分にも理解できる「ことば」が聞こえたというのとは違うのです。今まで自分の触れたことがない、価値観や考え方、相手の背負ってきたものを理解し合えるようになったということに他なりません。

 先週の礼拝で私たちは主イエスの昇天の出来事を記念しました。主イエスにすべてを賭けて従ってきた弟子たちでしたが、主イエスは復活させられて40日後に天に昇られました。けれども、主イエスはご自分に代わって聖霊が与えられることを約束してくださいました。そして主イエスのことを想い起こしながら弟子たちが集まっていたその時、不思議な「激しい風」が吹いてきたのです。そう、神様は自分たちをお見捨てにはならなかった、聖霊が降って彼らをいつも支えようとされる神様の愛を深く味わった弟子たちでした。私はこの風はすべての壁、すべての抑圧的な人間の力、そしてすべての一人ひとりに履かされた足枷を壊す風ではなかったかと信じます。弟子たちを新しいステージへと押し出す風、それが聖霊降臨の出来事でした。

 5節以下を読んでいきましょう。

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

 当時のエルサレムにはさまざまな地中海沿岸の地域で育ったユダヤ人たちが集まっていましたから、それぞれの故郷の「ことば」を持っていました。主イエスの弟子たちはみなガリラヤの人で主イエスと同じアラム語を話していましたので、彼らが突然さまざまな「ことば」で話し始めたことを大きな驚きで見ていました。聖霊が降るところには、さまざまな「ことば」(価値観や考え方も含む「ことば」)の壁を打ち壊して、理解し合う道が備えられているのです。そして互いに違っていることを否定したり、征服したりするのではなく共存する道を切り拓いてくださったのが聖霊降臨の出来事でした。

 けれども聖霊が降って一瞬のうちに何もかもが変化したわけではないのです。弟子たちが他の「ことば」で話していたのもほんの短い時間だったでしょう。しかし、その時神様は聖霊を通して何を私たち人間に見せてくださったのかといえば、それは不可能なことでも可能になるということ、人々が共に手を取り合って共存する道が確かにあるということを現実のものとし、そしてこの聖霊降臨によって示された現実の中を歩いて行きなさい、と神様は聖霊を送って今日も私たちの背中を押してくださるのです。

 今日ペンテコステを祝い、私たちはまた新たな日々を歩んでいきます。私たちの生活の場で、「ことば」の異なる人たちに出会うことでしょう。しかし、それを避けて通るのではなく、その人たちと真正面から向き合うことで、疲れたり、ストレスを感じたり、苛立ちを憶えることもあるでしょう。主イエスは異なる「ことば」を持つ人の話に耳を傾け、理解されました。私たちは主イエスのようにうまく「ことば」を話したり、十分に「ことば」を聞き取れないかもしれません。しかしそれでいいのです。普段使っていることばで、相手に誠実に向き合うことで美しい「ことば」が紡ぎ出されていくのです。お互いに話したいとこと、伝えたいことが通じ合っていくようになるでしょう。そのような私たちとほかの誰かが向き合うところにこそ神様の愛は実現し、聖霊の力は働かれるのです。


 
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